【句集を読む】
他者の到来
柿本多映『仮生』の一句
西原天気
やってくる。私たち人間とは別のもの、他者の到来。
人の世へ君は尾鰭をひるがへし 柿本多映
句集『仮生』の冒頭ページ左、すなわち集中2句目にあたるこの句。二人称「君」がカジュアルな「キミ」ではなく、尊称(君/公)のように思えてくるのは、いったいどうしたことだろう。
それは「世」の語がもつ規模からかもしれないし、「尾鰭」という私たち人間が持ち得ないものをもつ他者を「君」と呼ぶときに生じる作用かもしれない。ここではそれはどんな生き物かがわからないことも影響しているだろう。
いずれにせよ、この「君」には、外来王のような圧倒、巨大、神々しさが備わっている。(私には)どうしたって金魚には思えない。その(私には巨大としか想像できない)尾鰭によって「人の世」を揺り動かす。
「人の世」が、世界が、堅固ではなく、静的なありようでもなく、ふとした拍子にぐらっと揺れて、別の相を見せる。そうしたドラマチックで不思議な瞬間は、この句だけではなく、句集のいたるところに生起する。
なにしろこの句の前、句集冒頭が《天無辺海市の揺れが止まらない》なのだ。この揺れが句集を読み終えるまで読者のなかで、まさに止まらない。
《幽霊に胸板のある昼下がり》は〈あの世・この世〉が手を取り合って踊るかのような玄妙な飄逸。《鏡から尺取虫が出て戻る》《忽然とこの世に戻る一夜茸》は別の世界との往還。《地虫出づ草間彌生の如く出づ》では、草間彌生が地底深い冥界の住人のようなおもむき。《理髪師が来る夕虹をしたたらし》のあやしさ。《二枚貝恍惚として紐がある》は、昇天寸前の官能だ。
ところで、《尾鰭》の句の30ページ近く後ろには、こんな句がある。
水平に水平に満月の鯨 同
ああ、あれは鯨だったのか、と。
〔もちろんこれはあくまで読者たる私がただ思うことであって、作者の意図を想像/推測するといったたぐいのことでは、けっしてない。どこに快楽を見つけるか。それは誰にも(作者にさえ)邪魔されることのない読者の特権である。〕
さて、この鯨。満月の夜空を行く鯨。外来王を乗せたカーゴ船のおもむきだ。
他者の到来は、しばしば私たちを大きく揺るがす。〈我〉や〈我々〉のアイデンティティとかいった退屈で歪な構造物を、いともたやすく、気持ちよく全壊してくれたりするのだ。
■柿本多映句集『仮生』2013年9月1日・現代俳句協会
なお、書店、ネットショップ等では入手しにくい模様。現代俳句協会への問い合わせるのがよいようだ(≫参考ウェブサイト)
2013-11-10
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