2013-11-10

角川俳句賞受賞作・清水良郎「風のにほひ」を読む 上田信治

第59回角川俳句賞受賞作 清水良郎「風のにほひ」を読む

上田信治


炎天や眉のつながりさうな人

作者は、1句目から面白い人を出して、面白がらせにかかっている。〈涼風や平らになつたヨガ教師〉〈むつちりと首のうしろや盆の僧〉も同様。

去年の候補作には〈マスターの女言葉やビール注ぐ〉があった。

作者は「ネタ」の人なのだ。

たんぽぽやサインに首を振る投手
奉納のプロレスのこゑ青葉風

草野球のピッチャーのもっともらしさ、神社で催されるプロレス興行。それらは、懐かしの日本映画の一場面のようで、とてもほほえましい。

これらの句、季語が場面設定と雰囲気のアシストであることも、その中心が「ネタ」であることを示している。

熱帯魚のひげを見てゐる応接間〉〈白線の内側にゐる春の昼〉〈アスパラガスとめる輪ゴムの緑なる〉〈口の中にとびこんでくる蜘蛛の糸〉は、いずれも選考座談会でほめられている句だけれど、その感慨、「ネタ」としてはよくあるところ(池田さんも正木さんも「ネタ」に甘いね)。

結婚や子どもの誕生、人生上の苦労やよろこびも、俳句においては「ネタ」として機能する。

「ネタ」とは作品に先行する内容である。内容が言葉と形式との関係によって、もともと以上の価値を生むから、それがわざわざ俳句であることの意味がある。

清水さんの切り取る「現実の一コマ」という「ネタ」の場合も、事情は変わらない。先行する内容以上の内容、あるいは、もともとどこにあったか定かでないような内容が、言葉にされることで発生する、それが俳句の価値であって、受賞作50句の中には、もちろんそういう句がある。

日覆を突き出してゐる献血車

「献血車」でググれば、こうとしか書きようのない画像が出てくるのだけれど、この「物(ブツ)」として、ゴロンと投げ出された現実の手ざわり、炎昼のしずかさは、とてもいいと思った。

飛んでゐる白鷺の足そろひけり

「鷺」と「飛ぶ」でググれば(以下同)。サギという鳥はそういうもんだよと言ってしまえばそうなのだけれど、〈飛んでゐる〉という口語の「ウブさ」が、長い足をそろえて飛んでいるなあ、という、その驚きを諾わせる。。

鶏の腹に縫ひこむセロリかな

池田さんが選考座談会で言うように「(鶏にとっては)ひどいことをやっている」と読めば「ネタ」なのだけれど、生のセロリのごろごろ感、生の鶏肉のぶにゅぶにゅ感、そういったものを「縫ひこむ」という言葉がひっぱりだす。そこに、現実の手ざわりがある。

真鍮の肉付きやよし涅槃像
遮断機のうへ白蝶の吹かれけり

「肉」の字と「白」の字にみちびかれる、金属の質感と、一眼レフふうピントの合いかた。

落葉はく箒に拳ふたつかな

50句中の白眉だと思う。長い庭箒が働くさまは、たしかにこんなふうだ。つかのま人事を離れ、見る目と化したこの人は、その後ろにいる「人物」を言葉で消し去ってみせる。

こんなふうにして、写生とかただごとの方法は、天地に自他ともに無きがごとき清浄さの境位を示してくれる。作者の去年の候補作中、自分のイチオシは〈俎板の河豚が尾を振るみぎひだり〉だったので、この「箒」の句に出会ったときは、とてもなつかしかった。

清水さん、おめでとうございます。

来年は発表の機会も多いと思います。おもしろいのをたくさん、読ませて下さい。楽しみにしています。

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