俳句の自然 子規への遡行24
橋本 直
初出『若竹』2013年1月号
(一部改変がある)
(一部改変がある)
前回ふれたように、子規は、雪月花に時鳥という四季を代表するとされる伝統的な歌題・季題をそれぞれ三百句以上詠んでおり、作句中最も多い句群と言える。今回はそれらの句の中から、「時鳥」を例にとり、子規の句作と『分類俳句全集』所収の句についていくつか検討を加えてみたいと思う。
『分類俳句全集』においては、「時鳥」の句は二千四百二句が集められ、百八十九の項目に下位分類されている。子規は、「俳句多ければ更に之を小区分に分ち、其小区分を亦分類して、一項二十二三句を越えざるに至りて止む」(「俳句分類」講談社『子規全集』第四巻)という方針であったから、数が多ければ自ずと分類項目が増えていくことになるわけである。下位分類もここまで大量になってくると、紙の上では読み返すのも煩雑ではないかという印象をうけるが、ともあれ、季語とこの下位分類の組み合わせを一般的な用語で言うなら、いわゆる「取り合わせ」になり、子規の用語で言えば「配合」ということになるだろうか。
「写生」説を唱えた後の子規の句は、いわゆる属目、実感をもとにした句や写生が多くはなるがそれだけではない。また、写生提唱以前を含めれば、故事俚諺や時事の話題等によって作句したものも多数ある。数例あげると、まず、これまでも何度か触れたが、子規の俳号の元になった「時鳥」の故事から、血や死の連想が働いたと思われる句。
みつまたの上や血になくほとゝぎす 明治23
幾人の命とりけんほとゝきす 明治25
血の流れ屍の山や郭公 明治26
血に啼くや草噛む女時鳥 明治27
実際にはもっとあるが、一方『分類俳句全集』中には、このような死や血にかかわる句はあまりない。明確なのは、
血を吐て思ふあたりの時鳥 来山(五子稿)
ぐらいと思われる。そういう意味では、このような句を好んで詠んだのは子規の個性といえるだろう。また、他にも良く知られた俚諺や物語に拠った思われる句がいくつかある。
茄子にも瓜にもつかず時鳥 明治25
郭公太閤様をぢらしけり 明治25
時鳥ひよとり越を逆落し 明治25
四枚五枚八枚九枚郭公 明治26
時鳥蛤を焚く桑名かな 明治28
一句目は諺「瓜の蔓に茄子はならぬ」と時鳥の托卵の習性による着想だろう。二、三、五句目は説明はいるまい。四句目は一読ではわかりにくいが、いわゆる「番長更屋敷」からの作句である。
更に、遊女を取り合わせて詠まれた句について。
太秦や山ほとゝきす古遊女 明治26
奥州の墓はいづくに時鳥 明治26
傾城の鼾おそろしほとゝきす 明治26
傾城の耳たぶ広しほとゝきす 明治26
二句目の「奥州」は遊女の名で次の句が「猿蓑」に載る。
恋ひ死なば我塚で鳴け時鳥
子規の句は明らかにこれを踏まえての作であろう。
また、『寒山落木』第二(講談社『子規全集』第一巻)に「傾城画賛」と前書のついた句「子規顔を格子におしあてる」があるが、志田野坡の句「時鳥顔の出されぬ格子哉」(『炭俵』)と題材が似ている。これまでみたところでは、子規は自作に先行する類似類想句があったときは抹消句にしている。分類した句を個人別に再編集した「一家二十句」(講談社『子規全集』第二十一巻)の野坡の項にこの句が入っていることからすれば、気がついていなかったはずはない。子規句には、格子に顔を押しあてる傾城の思いの積極性が読めるが、野坡句は格子が檻のような感じで、消極的な様子とだいぶ趣が異なるから、子規は野坡句を典拠としつつも換骨奪胎した句だと考えていたのかもしれない。
ところで、今回調べていくうちに気がついたことがあり、気になるのでここで触れておく。『子規全集』所収の短文「子規子」(講談社版第九巻所収。原本が所在不明でアルス版全集第八巻からの転載)掲載の以下の八句について、
一聲は月かないたかほとゝぎす
提灯の空にせんなし郭公
行燈を月の夜にせん杜鵑
ほとゝきす啼くや湖水のさゝにごり
それと聞くそら耳もかな杜宇
川向ひどこのやしきへ時鳥
往て還るほどは夜もなし子規
ほとゝきす顔の出されぬ格子哉
子規はこの文中で「古人ヲ假リテ余ニ代リテ啼カシム」と引用である事を示してはいるものの、句の作者名が記されていなかったためか、これらが子規の句として引用されているのを散見する。例えば、松山市立子規期年博物館編の『子規俳句索引』(昭和58)は、講談社版の全集所収の子規句の索引で大変重宝なものだけれども、これらが載っている。
実際は一句目から、小唄「一聲は月」の冒頭、杉山杉風、服部嵐雪、内藤丈草、杉田望一、宝井其角(川向ひ誰が屋敷へか時鳥)、桜井梅室(往きて返る程は夜もなし時鳥)、志田野坡の句である(括弧内の句は『分類俳句全集』による)。
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