2014-02-09

空蝉の部屋 飯島晴子を読む 〔 15 〕小林苑を

空蝉の部屋 飯島晴子を読む

〔 15 〕


小林苑を


『里』2012年7月号より転載(加筆)

恋ともちがふ紅葉の岸をともにして
   『八頭』

木々の紅く燃える岸辺を男と女が二人で歩く、あるいは腰かける。フランス映画の一場面など想ってみると、いい雰囲気。「恋ともちがふ」の微妙な響き。恋と「は」では話にならない。そんなにハッキリ言いきってしまったら、雰囲気はぶち壊しになる。

恋のような、恋になるかもしれない、でも恋ではない、この瞬間にしかない関係は恋よりもトキメクかも。

岸というのは、日本人にとっては彼岸だと思えば、さらに幻想的な場面へと想像をふくらませることもできる。

この句ができたのは、山梨県の上野原だという。フランス映画のイメージとはかなり違って、日本の山村の代表のようなところだ。私の父も山梨県出身なので、あの辺りはハッキリと目に浮かぶ。山また山、深い谷と急流。鄙びた町並みは、いまも晴子が歩いた頃とあまり変わっていない。その上野原のさらに山奥にある阿寺沢を歩いたとき、案内した地元の若い俳人の佐々木碩夫が谷を覗き込んで「恋ぞつもりて淵となりぬるとはうまいことを言ったもんだなあ」と呟いた。家に戻ってから、それを手がかりにして作ったという〔※1〕

晴子はよく上野原へ出かけた。「わが家から一時間少々という近さと、景色や土地の人々の生活に歳時記的自然が残っていて、しかもそれが特殊でなく普通であるのが気に入ったからである」※2というので、佐々木宅にもよく立ち寄っていたいたようである。掲句にふれて「秋も深まると、谷々と清流は古典的気分を誘う〔※2〕」というのだから、冒頭の私の読みとはずいぶん違った景色になるのだが、晴子が阿寺沢を写し撮り、それを一句としたとき、そこはもう阿寺沢ではない。

この稿を書くのに何度も何度も捲っている『飯島晴子読本』を、企画編集したのが元「俳句」編集長の鈴木豊一。今年五月『俳句編集ノート』(石榴舎)で、第十二回山本健吉賞 ・評論部門を受賞している。この人が上野原出身なのだと、ブログ〔※3〕を見て知った。

鈴木はブログで、出会った数多くの俳人について書いており、今年の一月三十一日に「聡明と明と温もり ー飯島晴子―」をアップしている。少し引用が長くなる。

晴子没後、長女後藤素子の許諾のもと『飯島晴子読本』を企画編集した。これは楽しい仕事だった。―略― 俳句の写実と非写実について、直接聞いたり、俳論として読んだりしたことが、改めて通読すると、すべて腑に落ちて、快い読後感を味わうことができた。生涯を終えた人の偉業を鳥瞰することは、僥倖というほかない。/ この『読本』から、私は二冊の単行本をつくった。晴子生前の希望でもあったという『飯島晴子全句集』と、唯一のエッセイ集『葛の花』である。/『全句集』を通読して、前半のスリリングな句に比し、後半の平明への移行は、私にはやはり感情移入しやすく読める。平明は、老いへの自覚と無縁ではない」として、最後の二冊の句集から < 白髪の乾く早さよ小鳥来る 『儚々』> <気がつけば冥土に水を打つてゐし  『平日』> 等、十二句を挙げてこう語る。

これらの句も、一見、平明な写実風でありながら、非写実的二重構造は根底に流れている。/ 典型は、思索と実作のなかからしか生まれない。飯島晴子という典型の出現によって、現代俳句は新たな指標を与えられた。晴子による俳句変革は、その後の俳句の潮流を晴子以前と以後とに二分したといってよい」。

掲句を収めた『八頭』は、晴子自身が「誰にも言われるのは 「写実的になった」 ということである。〔※4〕」と書くように「前半のスリリングな句に比し、後半の平明への移行」の転換点と言われる。

タイトルになった < 八頭いづこより刃を入るるとも > をはじめ、< いつも二階に肌ぬぎの祖母ゐるからは > < 金屏風何とすばやくたたむこと > < 軽暖や写楽十枚ずいと見て > 等のよく知られた句群は、なにがなんだかわからない眩暈はなくなっているが、十分にスリリングである。入るる「とも」、ゐる「からは」、たたむ「こと」、ずいと「見て」、読み手を宙ぶらりんにする。『儚々』『平日』の平明へと向かうには、まだ間がある。

晴子はよく歩く。歩ける、ということがどんなに有難いことか、自信につながるか、ということを思う。

初冬の霧雨模様の夕暮れどきに晴子と碩夫のふたりが、山奥の村阿寺沢からの帰りみちということでわが家に立ち寄った。登山靴にアノラック、小ぶりのリュックサックという晴子の吟行スタイルは、俳壇のパーティーなどで見る華麗な姿とは別の、清楚な印象があった。ちょうど生垣の石を積みかえる工事中で、晴子は老石工の手もとをしばらく眺めていた。阿寺沢には碩夫の親戚があり、その家を案内したのだろう。阿寺沢から碩夫の家までは半端な距離ではない。晴子は当時五九歳。健脚はまだ衰えていなかった〔※5〕」。


〔※1〕『飯島晴子読本』収録 『自解一〇〇句選 飯島晴子集』一九八七年十二月 
〔※2〕『飯島晴子読本』収録 『朝日新聞』「わが俳まくらー上野原―一九八九年十二月
〔※3〕石榴舎ブログ 『俳句は自伝』 http://sekiryusha.blog28.fc2.com/?no=17
〔※4〕『葛の花』二〇〇三年七月刊・収録 『鷹』「『八頭』の頃」一九八六年三月
〔※5〕石榴舎ブログ 『俳句は自伝』

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