今井杏太郎論1
正門から入る 意味のゲシュタルト崩壊
生駒大祐
俳句において意味とはなんだろうか。
俳句において意味を排除しようとした俳人(より正確には僕がそう考えるとしっくりくる俳人)は何人もいる。
白椿白痴ひうひう研究せり 攝津幸彦
硝煙として少年愛、ぶなの林の中に出る 加藤郁乎
あるいている朝の会議に羽置いて 阿部完市
意味を排除する手法は、時に極端に詩的な飛躍であったり、時に言葉遊びであったり、時に自動筆記的な書き筋であったりする。意味は「説明」と結びつきやすい。阿部完市は「わが≪イメージ≫論」のなかで
イメージとは、存在のひらめきであり、気分であり、はぐらかしであり、だまくらかしであって、それを書き切ること。その不穏と微動とを書き切ったときに生成される一種のたしからしさ―リアリティ―、それを書き切ること、それが一句を書き、完成させるということである。(中略)イメージは、想像という作用によってなされ、言葉と結びついての、そして、また観念の手前にある、ひとつの情念的作用である。それゆえに、イメージは、説明をもっとも忌み嫌う。
と書く。意味を嫌った彼らは、俳句が説明的であることを嫌ったのか。しかし、彼らの書き方は、どこか変化球である。俳句に門があるとすれば、裏門から俳句の中に入った人、という気が僕にはする。
ところで、中島敦に「文字禍」という短編がある。その中では文字を知った人間の災厄が描かれるが、登場人物であるナブ・アヘ・エリバ博士は「一つの文字を長く見詰みつめている中に、いつしかその文字が解体して、意味の無い一つ一つの線の交錯としか見えなくなって来る。単なる線の集りが、なぜ、そういう音とそういう意味とを有つことが出来るのか、どうしても解らなくなって来る。」という体験をする。これはおそらく心理学においてゲシュタルト崩壊と呼ばれる現象の描写であろう。
今井杏太郎の俳句を読んでいると、俳句における意味という概念が次第に揺らいでゆくような感覚に襲われる。
早咲きの赤い椿が咲きにけり 今井杏太郎
山あひを流れてゆきし春の川
雪解けの大きな山を見てをりぬ
(以上、句集『麥稈帽子』春の部より)
これらの俳句に意味がないわけではない。意味という点では至極まっとうな俳句であると、思う。ただ、読んでいると、揺らぐ。
それはおそらく、韻律、情景、イメージ…それらが繰り返されることにあるのではないか。
ほとんど古典に近いやりかたで描写を繰り返しながら、それでいて意味を、説明を離れた俳句を作ることを杏太郎が目指していたとしたら。
それは、正門から入って、しかしそのまま裏門から出てゆくような俳句だなあと、思って笑ってしまうわけです。
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