空蝉の部屋 飯島晴子を読む
〔 17 〕
〔 17 〕
小林苑を
『里』2012年10月号より転載
八頭いづこより刃を入るるとも 『八頭』
前回の肌脱ぎの祖母の句については、阿部完市の「飯島晴子の俳句」とともに、『飯島晴子読本』の同じ章で仁平勝が「肌脱ぎの祖母」というタイトルで晴子の句と思い出を書いている〔※1〕。
担当していた日経新聞のエッセイ欄でこの句を取り上げたことがきっかけで晴子から手紙が来たと始まり、この祖母は晴子の母方の曾祖母がモデルで、母親から聞かされた話から醸成されたイメージの祖母なのだと語っている。
そこから、仁平は、 < これ着ると梟が啼くめくら縞 「蕨手」> < 鴬に蔵をつめたくしておかむ 「春の蔵」> の二句を挙げて、「これらの句は、けっして現実的な風景ではなく、先の「肌脱ぎの祖母」と同じように、作者の脳裏で醸成されてきたイメージにほかならない。…略…『めくら縞』や『蔵』はそれぞれ作者の脳裏に『私の予定出来ない、私の未知の世界』〔※2〕として眠っていた。それは『肌脱ぎの祖母』と同じように、母親から聞かされる話のなかで、いつのまにか童話の世界と融合していたにちがいない。その融合した世界から『梟』や『鴬』を引き出してきて、俳句形式の場でそれらを組み合わせてみせた」という。
晴子句の物語性について、このように書かれると、まだ梟が啼くのを耳にし、ひんやりとした土蔵が身近にあった時代に、大人たちから聞かされる昔話を頭の中でイメージを膨らませてゆくことが数少ない楽しみだったことを思いだす。仁平と同時代の私にとってもそうだった。母世代である晴子なら尚更であろう。
もちろん、言葉にまつわるイメージは、個々の作家のそれぞれの体験から「醸成」されるので、仁平の「母親から聞かされた昔話」云々は、それだけに限定しているわけではないだろうが、幼いころから聞かされた物語、読んだ話、見ていた光景等が、晴子がひとつの言葉を凝視するときに引き出されて来るのだ。それは作品となって読み手に手渡され、新たな物語が始まる。
句集名となった掲句、これもよく知られた句だ。句意は、名も形もごつごつたくさんの頭がある八頭だけれど、どこから刃を入れようと八頭は八頭なのだ、とでも言えばいいのだろうか。それではちっとも面白くはない。一寸した機智、駄洒落のような仕立の句である。
だからといって、とくに深読みをすることはない。それだけの句なのだ。
にもかかわらず、掲句には読み手を惹きつける力がある。すっと読み下せるリズムの良さ、「入るるとも」のあとの余韻。
接続助詞「とも」は「~かもしれないが、それでも」である。読み手はあとに続く言葉を待って取り残される。この余韻の響かせ方の巧さは晴子句の技のひとつである。俳句は「眼玉目の直径」〔※3〕という一七文字が十分に効果を発揮するように置かれている。余韻は、想像力を掻きたてる。表現したもの以上の物語へと誘う。
梟や鴬の句ほどにはイメージを膨らませることはできないが、やはり晴子らしい表現が生きたとき句に力が生じるのだ。『八頭』以降の句集にも同じような印象を持つ。
小林貴子の「飯島晴子論 ―アナーキーな狩人― 」〔※4〕は、時代を追いつつ丁寧に晴子の方法を読み解いて圧巻だ。読んでいると、もうなにも言わなくてもいいなと思ったりする。
その中で、小林が、『八頭』にある肌ぬぎの祖母や八頭の句、さらに < 軽暖や写楽十枚ずいと見て > < 金屛風なんとすばやくたたむこと > 等で、晴子が歌舞伎役者のように見得を切っているといっているのが楽しい。気力体力の充実期だとも。
そして、八頭の句について、「容易に、出雲神話の八岐大蛇が想起される」という。確かに「いづこより」という大仰な言い方から八頭はまるで大きな怪物でもあるようだ。
ただ、この箇所には一寸違和感がある。人それぞれなのだけれど、私には八岐大蛇は浮かばない。それではつまらない。そうではなくて、八頭という言葉の喚起するイメージそのものを味わいたいと思う。それが読み手に委ねられているからこそ、視覚だけではなく全身で感じる、それこそが言葉により可能なことなのではないか。「母親から聞かされた昔話」という、語り聞かせのエキスみたいなものだ。
ひとつの言葉から物語世界を浮遊してゆく、「言葉の海を何の目算もなくー略―言葉たちはしぜんに離れるものは離れ、くっつくものはくっつき、また、遠くから言葉をよびよせなどして」〔※5〕というのは、つまり空蝉を吹きくらすことかもしれない。そして、空蝉を吹きくらすなんてこと男はするだろうかと考える。もちろん男も女も空想世界へ彷徨うのだけれど、晴子の彷徨っていくところはいつも女しか知らない場所のような気がしてならない。
〔※1〕『飯島晴子読本』収録 「肌脱ぎの祖母」
〔※2〕〔※3〕〔※5〕『飯島晴子読本』収録 「言葉の現われるとき」
〔※4〕『12の現代俳人論』(上)収録。同書上下巻は月刊『俳句』二〇〇三月号~二〇〇五年二月号の連載に加筆して二〇〇五年に単行本化。
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