2014-03-30

空蝉の部屋 飯島晴子を読む 〔 19 〕小林苑を

空蝉の部屋 飯島晴子を読む

〔 19 〕


小林苑を


『里』2012年4月号より転載

凍蝶の天与の朱を失はず   『寒晴』

結社体験のない私には、人から話を聞いて想像するしかないのだけれど、先のシンポジウムでも結社が話題になった。最近は結社に属さない若い俳人も多いというのもあって、ホトトギス以来の結社で育つことの意義があらためて問われているのかもしれない。結社に限ったことではなく、組織と言うものは、小さいにせよ面倒はある。主宰がいて、よくわからないが年功序列か、上手い下手によるのか、暗黙にせよ上下関係が成立すれば、自由にものを言うのは難しくなる。そもそも勝手と自由の区別は難しい。

インターネット上で『spica』十一月に毎日連載された矢口晃「モノローグ」〔※1〕は、矢口が「鷹」に在籍していた十代から二十代の体験をタイトル通り独白するスタイルで、師である藤田湘子への思いを吐露して話題になった。ここからだけで「鷹」の雰囲気を推し量ることはできないが、晴子はどうだったのだろうと思ったりした。

そんなことを考えていたら、先月号の「里」で、森泉理文さんが小澤實論で結社のことを書き、島田牙城さんがまえがき(吾亦庵記録でもかな)爽波の「青」にいた時代に触れていた。湘子自身が「馬酔木」を飛び出したときも、小澤が「鷹」を離れたときも、事情はそれぞれあるにしても、師との相克があり、自身の俳句観に自負を抱き、自由に羽ばたきたいということではある。当然、新たな結社に集う人々もまた同じ思いがあるはずだ。飛びだされる方にしたら、反逆ということか。分派というのは、ひとつには経済基盤の問題もはらむだろう。

牙城さんは「『青』は爽波さんの主宰誌なのだから、主宰・選者と會員会には師弟關係が生まれるといふのが一般的な味方なのだろうけど」〔※2〕そうではなかったのだという。それがある時期から変化した。主宰がどのような人柄であれ、組織は時間とともに変わる。

組織・団体の発足のメンバーには同志意識があるものだ。新しいことを始めようと言う気概に満ちた勢いのある時期は、個々のメンバーが思いを共有している。意見を戦わすことも組織の勢いを加速する。

ここで結社の是非を問うつもりはないし、言えるほど知ってもいない。ただ、晴子について言えば、「鷹」の発足メンバーであり、年齢的にも、湘子より十歳年上。俳句の先達として湘子を敬したではあろうが、湘子も一目置くという、師弟というのとは違った関係であり、いろいろな意味で「鷹」の土台を支える一人であったのだろうことが窺われる。

小林貴子は「『鷹』に自由な活躍の場が与えられ、句の詠み方に制約がなかったことが、晴子のさまざまな試行を可能にした」〔※3〕と書いている。

自由に結社の外の人びとと交流し、自身の思うところへと歩みを進める。晴子には若書きという時代がないのだから、誰もが最初から晴子の立位置にいられるわけではないだろう。だとしても、師を超え自分の句を志向するのは、主宰のありようではなく、己の力量の問題だと、晴子ならそんな風に言うのかもしれない。

掲句、寒の厳しさの中で震える凍蝶であればこそ、その朱が映える。なんだか思い入れしたくなる句だ。

季語だけではないが、とくに季語の意味とイメージは俳句をやらないとわからないことが多い。俳句を始める前は冬の蝶と凍蝶の違いもよく知らなかった。凍蝶には冬の蝶にない痛みの感覚があるのだ。生きているのかもわからぬような褐色の蝶。その中に朱を発見する。俳句的発見などというが、この朱が「天与」であり、「失はず」と言い切るとき、晴子句になる。

『寒晴』には掲句の前に < 鯛焼の頭は君にわれは尾を > の微笑ましい句があり、すぐ後ろには < 凍蝶を過のごと瓶に飼ふ > がある。『寒晴』から平明になったといわれるが、この三句を並べて読むと、平明というより自在になったというべきか。句集名となった < 寒晴やあはれ舞子の背の高き > の独自な目線や「あはれ」と言いながらカラッとした印象にも、自在を感じる。

昭和六十年秋から平成元年までの句群。六十一年の四月に夫入院、六月に死去、晴子六十五歳。ここから老いを意識したように思う。山歩きを共にする友達のような夫婦であったようで、一人になったという思いは誰にも同じように訪うだろう。

六十一年の句。< 柩には甚平も入れてやりにけり > < 死者のため茹でたての蝦蛄手で喰らふ > < 芒剪る鋏の音も此岸かな > < 数へ日のすすきみみづくみみづく婆 > <身ほとりや濃き亡年の墓煙 >。

この年の一月から立川朝日カルチャー講師、共同通信社俳句時評担当、四月からは横浜読売文化センター講師等々、幾つもの仕事を引き受け、三月には「鷹」誌上で前年刊行の『八頭』特集が組まれ、翌年には『自解100句選』発刊と俳句作家としては脂の乗り切った時期でもある。


〔※1〕『spica』「モノローグ」
http://spica819.main.jp/tsukuru/tsukuru-yaguchikou〔※2〕『里』二〇一二年十一月号 
〔※3〕『12の現代俳人論』「飯島晴子論 ―アナーキーな狩人―」二〇〇五年

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