特集「ku+」第1号 反響
読売新聞東京版3月24日夕刊「俳句時評」
仁平 勝
「クプラス」(発行人・高山れおな)という俳句同人誌が創刊されて、そこで「いい俳句」という特集が組まれている。まず「『いい俳句』とはなにか」を問うアンケートに、一〇七人の俳人が答えているが、この難問への多様な回答の仕方がなかなか興味深い。
「この世界はこういうものだと、言葉の力で納得させてくれる俳句」(小川軽舟)、「作家の個性が感じられ、主張が明確でありつつ、これみよがしではない句」(高田正子)、「その季節になると思い出される句」(西村和子)など、問いに対するスタンスもさまざまだ。
アンケートは、それぞれ「いい句」の典型を一句挙げるようになっている。「名句」としてよく知られた句以外、という条件がついていて、回答を抽象論にしたくないという意図がみえてくる。
たとえば軽舟は「集まつてだんだん蟻の力濃し」(南十二国)、正子は「若き母の炭挽く音に目覚めけり」(黒田杏子)、和子は「蹤いて来るその足音も落葉踏む」(清崎敏郎)を挙げている。軽舟の場合なら、さしずめ「力濃し」が「言葉の力」というところか。
一方、「私にとって(個人的に)『好きな俳句』があるのみ」(橋本榮治)という回答もある。予想された答え方で、逆にいえば「いい俳句」は、とどのつまり「好きな俳句」でしかない。でも自分の「好きな」根拠を、「いい」という価値観に置き換えてみるのは、批評として有意義なことだ。
特集の冒頭に、編集人の一人である上田信治の「龍太は、なぜそれを言ってくれないのか」という文章がある。
その趣旨は、飯田龍太が芭蕉の「此秋は何で年よる雲に鳥」の句を何度も引用しながら、その句の良さを具体的に説明しないことへの不満を述べたものだ。重要な指摘だと思う。
これは龍太に限ったことではない。「いい俳句」というのは、その良さを言葉では説明できないものだと、たぶん俳人は誰でもそう思っている。でも、それを言葉にしていかないと、ほんとうの俳句の批評は始まらない。
「『いい俳句』とは何か。飯田龍太にそう聞けば、間違いなく適当にはぐらかされるだろう」と上田はいう。けれども、「俳句は自得の文芸」だとする考えは、俳句を「秘教化」することだ。だから「野暮は承知」で、今回のアンケートを試みたのだという。その蛮勇(?)に拍手を送りたい。
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2014-04-13
特集「ku+」第1号 反響 読売新聞東京版3月24日夕刊 俳句時評 仁平勝
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