【八田木枯の一句】
恋に恋ひ苺をたべて匙をなめ
太田うさぎ
恋に恋ひ苺をたべて匙をなめ 八田木枯
今や夏よりも春のフルーツとして人気の高い苺。私がこどもの時分には栃乙女もあまおうもなく、苺はもっとこぢんまりとして酸っぱかった。ガラスの鉢に盛られた苺に砂糖をふりかけ、スプーンの背でじわじわと圧をかける。苺がおおよそ潰れたところで牛乳を注げば滲み出た赤い果汁と混じりあって可愛らしいピンク色の湖が出来上がる。それを浮島のような苺ごとスプーンで掬い上げては口に運んだものだ。はしたない食べ方かもしれないけれど、当時はありふれた食後のデザートの風景ではなかったか。
この句は昔の苺の味に似て甘酸っぱい。苺ミルク風ではなく丸のままの真っ赤な苺。その味をもう一度確かめるようにスプーンを舐める。あんまりお行儀は良くないが、恋に憧れる年頃の娘の仕草としてまことに愛らしい(同じことを脂ぎったおじさんがしたら気味悪いだけだ)。若々しさを感じるのは、連用止めの繰り返しが生み出す、弾むようなリズムのためもあるだろう。
苺そのではなくむしろ苺を映していた匙を楽しむこと。恋に恋するとはまさしくそうしたことだが、”実”と抱き合わせになった”虚”の愛で方がいかにも八田木枯だ。匙の上の苺の残像は食道を下っていく本物よりも甘美だろうし、くちびると舌がなぞる匙の弧の感触は仄かに冷たく官能的だ。また、この匙から作者後年のモティーフとなる”鏡”の要素を汲みとる解釈も成り立つかもしれない。
などなど、第一句集『汗馬楽鈔』(1988年)の冒頭を飾る句だけにあれこれと考えを巡らせないこともないのだけれど、そんなのは後付でしかなく、読んでぱっと感じる明るさと機知をただ愉しんでいるのだ。苺の季感は春に移ったにしても、この句がふっと浮かぶのは新緑が街に溢れる今の季節。何にでも無防備にうっとりと出来たあの頃に手が届きそうな気がしてしまう季節。ま、恋と同じく美しい誤解ということで。
2014-05-18
【八田木枯の一句】恋に恋ひ苺をたべて匙をなめ 太田うさぎ
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