【週俳6月の俳句を読む】
詩の言葉として
羽田野 令
あららぎのこぼれ雀も子供の日 陽 美保子
高い所の巣からこぼれてしまった子雀のことなのだろう。飛ぶ練習をしている子雀をみたことがあるが、飛び上がってもよく飛べないときは、へなへなと羽ばたきながら地面へ落ちていく。そんな風にして落ちた雀の子だろう。子雀の飛ぶ練習を親鳥は近くで見ているらしい。「落ちている雛は拾わないで下さい」と野鳥の会などがキャンペーンをしているが、人間の姿が見えなくなると親雀が来て雛の世話をするそうだ。子雀も親に保護されてちゃんと飛べる様になって育ってほしい。「雀も」の「も」は、そんな願いのこめられた「も」であると思う。この句は「子供の日」がとてもいいと思う。
○○の日という季語は難しい。○○の日ということをベースにして何を書くかと考えると、実際その日にはあらゆる人があらゆることを出来るわけで、何を持って来ても成りたつなら、一体何を選べばいいのかわからなくなる。憲法記念日にしろ、子供の日にしろ、その日の本来の意図するところのものをそのまま書くと標語になってしまう。俳句は、忌日もそうだが、日というものが詩の言葉としてあるという不思議な詩である。
ソファーごと沈み宇宙で薔薇が浮き 髙坂明良
ソファーに体を沈ませて、まるでソファーごと沈んでゆくかのような感覚。それと対峙するように浮かぶ物としての薔薇。薔薇のあるところを宇宙とすることで、実祭に薔薇がある地球上の人間の生活域から切り離された、現実感のない空間が示される。そのことによって「沈み」が単に体が沈んでゆくだけでなく自分の内側へ下降してゆくベクトルのように感じられてくる。
塩崎敬子さんという画家に『浮遊している薔薇』という絵があって、その絵はがきを持っているのだが、個人的にはそれを思い出した。
http://www.keikoshiozaki.jp/ro_005.html
荒梅雨のなかで生まれた馬を抱き 髙坂明良
激しい雨のなか、雨音に世のすべてから切り離されたようにして馬と私だけが居る。抱いている馬の体温が体に伝わって来て、生まれた生命そのものを抱いているように感じられるのだろう。「荒梅雨」の中に馬と私だけが際立つ。リズムがよく音の重なりもいい感じである。
指いまだ箒の夢をみていたり 原田浩佑
箒の夢とは何であろうか。箒は掃く物だけれど箒で掃くことは夢見るようなことではないから、やはり、箒で空を飛んだことだろうか。でも空を飛ぶ時につかむであろう箒の柄は指というよりも手全体で掴むものの様だから、指だとちょっとそぐわないような気がする。指だと指先で箒草を一つ一つ揃えているような細かい動作のことを思うのだが。体の部分を捉えてそこが夢見ているとしているのが面白いと思う。
君だけを遺して暮れる枇杷匂ふ 井上雪子
日が暮れてゆく頃、薄暗くなってゆくのに「君だけ」は暮れのこっているという。枇杷はそんなに匂いの強い果物ではないから、仄かな匂いとあいまって君を思うことが感じられる。「遺して」と「遺」の字が使われているが、遺品などで使われるので死後に残るという意味にとってしまいそうなのだが、遺失物というときも使われるので、ここではこっちの方かなと思って読んだが、ちょっと字が強すぎる様な気がした。
波終わりはじまる所夏岬 梅津志保
岬とは陸の突端であり、陸の果つるところである。果つる所は異なる世界と接する所である。陸と海の境界としての岬。句の中の「終わりはじまる」はまさに、そういう境界性を語っている。海と岬だけのシンプルな景は、波、岬という具体性がありながらそれの表象するものの方へ委ねられるような気がした。
壁ちぎりちぎりゆくかに春のナン 西村 遼
バス一輛鯨の如く曲がりけり
比喩が巧みだ。ナンはお皿からうんとはみでて出される。それをちぎって食べるのは、言われてみれば壁をちぎっているようだ。インドでは年中食べるものであっても、「春のナン」としたことで、ふんわりとした、あたたかな気分が感じられる。二句目のバスを鯨にたとえるのも、なる程と頷ける。
第371号 2014年6月1日
■陽 美保子 祝日 10句 ≫読む
第372号 2014年6月8日
■髙坂明良 六月ノ雨 10句 ≫読む
■原田浩佑 お手本 10句 ≫読む
第373号 2014年6月15日
■井上雪子 六月の日陰 10句 ≫読む
第374号 2014年6月22日
■梅津志保 夏岬 10句 ≫読む
第375号 2014年6月29日
■西村 遼 春の山 10句 ≫読む
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2014-07-13
【週俳6月の俳句を読む】詩の言葉として 羽田野 令
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