2014-08-24

【柳誌を読む】Re:Re:Re:Re:Re:くろやぎさん 『おかじょうき』第246号(2014年7月号)を読んで 柳本々々

【柳誌を読む】
Re:Re:Re:Re:Re:くろやぎさん
『おかじょうき』第246号(2014年7月号)を読んで

柳本々々



『おかじょうき』2014年7月号から、「おかじょうき川柳社月例句会」における「席題『メール』」によって詠まれた句をみてみようと思う(この席題の選者は、須藤しんのすけさんと徳田ひろ子さん)。わたしがこの「席題『メール』」をあえてとりあげてみたい理由は、「メール」という題詠によって、必然的に句のなかでおのおのが〈生〉の〈関係性〉の構築=構造化と向き合っているからだ。ふだん、わたしたちがメールを出す所作をふりかえってみてもわかるように、メールとは出されても出されなくても、送信されても送信未遂がおきても、書かれ・打ちこまれたその瞬間にそれそのものが構造化された関係性になってしまう〈関係性を構造化する構造〉なのだ。たぶん。

 スキスキスキスキスキスキってメール  ひとは

ここには、自動書記的なエクリチュール(書き方/文)になっていく〈メール〉の書くことをめぐる運動態が端的にあらわれているように思う。〈メール〉とは相手との即時的で直感的な条件反射としての往還をくりかえすうちに、ことばそのものが自律性を帯び始め、〈好き=スキ〉のゲシュタルト崩壊のような意味の脱構築をみずからはじめてしまう文章態なのだともいえる。定型におさまりつつも半壊している〈ス/キ〉が、〈好き=スキ〉の発話主体の所在を問いかけているような句でもあるように思う。

 すれ違うメール終止符打てません  渡邊こあき

メールをめぐる発話主体の所在の不明確さは、ピリオド=終止符の所在もわからなくなるという事態を呼び込んでいく。なぜなら、ピリオドを打てるのは、その発話の明確な(自信と確信をもった)言表主体だけだからである。しかし、「すれ違う」と上五にあるように、メールは、みずからを越えて意味作用が自動的に往還しはじめてしまうところにその特徴がある。それは、明確な伝達意志をともなった〈終わり〉に向かう目的論的な伝達活動ではなくて、円環的にねじれていく主体の伝達事故がつづくような「終止符」の〈喪失〉としてのメールである。

 戦場のどこかで同じメール音  まきこ

メールそのものではなく、メールをめぐるハードウェアの状況をとらえた句だと思う。戦場という〈わたし(味方)〉と〈あなた(敵)〉の境界線がめまぐるしく変転する〈場〉のなかで、〈わたし〉と〈あなた〉の無機的な同質性がメール音によってとつぜん浮上してしまう。それはもしかしたらわたしたちの関係性がすでにわたしたちの主体とは無縁にメディアのシステムのなかに組み込まれたうえで成り立っていることの現れのようにも思われる。デジタル・メディアが蔓延する「戦場」においては、〈銃声〉よりも〈メール音〉がこだまする。

 一斉送信世界で二番目に孤独  土田雅子

上五をあふれてしまう「一斉送信」の過剰さと、〈メール〉という、〈外部〉をもたないすべてを覆い尽くすメディアによって〈一番〉にさえなることを失ってしまった「二番目」の「孤独」感がよく表れている句だと思う。メールと手紙のひとつの差異は、過剰な反復性にある。「コピペ」という言葉によくあらわれているように、メールとは反復再生産が可能な文の様態がその基本形式にある。裏返せば、反復できないようなメールは、メールではないということだ。だから、わたしたちは〈固有〉の孤独さえも失ってしまう。そこには「二番目」としての、「一番」でもなく「三番」でもない〈あいだ〉としての置換可能で反復可能な孤独が存在するだけだ。

 雑踏がメールで埋まる都市伝説  角田古錐

この句においてもメールの過剰さが主題になっているように思う。ただその過剰さを下五において「都市伝説」と結語することによってリアルの所在を留保しているところがこの句の面白さであるように思う。もっといえば、「メール」そのものが果てしない「都市伝説」のような虚構性を秘めた言語表現そのものであるかもしれないということだ。それは「雑踏」という〈カオス〉を〈見せかけ〉としてしか「埋」めつくせないような「都市伝説」として機能しているかもしれないということではないだろうか。

 地獄極楽きらきらスパムメール来る  徳田ひろ子

メールの極北にあるような暴力的匿名表現である「スパムメール」=迷惑メールを「地獄極楽きらきら」というやはりこの世の極北としての「あの世」と組み合わせたところが面白い句であるように思う。スパムメール=迷惑メールとは、すべて固有名をもった匿名であるのだが、そうした実体をともなわない固有性は構造的連関として、身体が喪失してよりいっそう固有名の強度が増す〈死者〉にも通じるところがあるように思う。そう考えるとスパムメールが冥界からきたとしても構造的にはなんの不思議もないのだ。

 真夜中のメールぴこぴこ元気だよ  葉閑女

土田雅子さんの「一斉送信世界で二番目に孤独」の句をうらがえした主体が葉閑女さんのこの句なのではないかと思う。ここでおそらくポイントとなるのは、下五の「元気だよ」にある。「真夜中」という「元気」とは相反するような時間軸において「ぴこぴこ」というメールを通した〈元気〉が語られている。つまりここで問題にされているのは、あくまで「メール」を通した「元気」であって、「真夜中」にたたずんでいる主体の「元気」は遠景化されてしまう。メールによって「元気」が〈誤配〉され、元気も時間軸も錯綜するようなデジタル状況を詠んだ句のようにも読めてしまうのがこの句の凄いところだ。

 ラブメール打つのは隠れキリシタン  奈良一艘

私秘的な行いが手紙メディアよりもとりわけて意味をもってくるのがメールメディアである。ただしそれは「隠れキリシタン」という〈隠れ〉つつもその名称によって〈隠れ〉てあることが露顕してしまっているように、いつでも不特定のどこかに流出する、もしくは受け取らざるべきものがその「ラブ」を眼にし、受容者となってしまうかもしれない〈誤配〉の主題がでてくる。この句の主題は、おそらく、デジタル・メディアが書く行為に介在するようになった現在、わたしたちはほんとうはいったい〈だれ〉にむかって文を書いているのか、ということにあるように思う。

 消去したメールそれでも陽が昇る  三浦蒼鬼

メールはつねに〈誤配〉可能性をもっているのだが、それは「消去したメール」がどこかで〈痕跡〉として残っていくからでもある。定型にわけたときに浮かび上がってくる「メールそれでも」という中七に注意したい。「消去した」としても「メールそれでも」としてふたたび浮上してくるのが〈メール〉である。なぜなら、手紙とちがいメールの記憶装置はこの〈わたし〉にあるわけではなく、むしろスマホ、ケータイ、アプリ、パソコンなどのデバイスの方にあるからだ。また、この句には「消去したメール」としてのゼロワンのデジタル世界と、ゼロワンに回収しえない「それでも陽が昇る」自然法則が順行される世界が対比されていることにも注意したい。自然界は記憶するデバイスを持たないからこそ逆説的になんども差異をはらみつつ生成反復していく世界である。しかし、メールのようなデジタル世界は記憶装置があるだけに、いつ〈ゼロ〉になってもいつでもその〈ゼロ〉の状態のままシステムを維持していける(ことが前提の)世界なのである。しかし、問題はその〈ゼロ〉の世界観にわたしたちがまだ慣れてはいないということなのではないか。それでも陽は昇るし、それでも身体はひきずられる。

 鬼としてメール一本うちました  北野岸柳

この句ではメールの反復再生産性に対抗するような中七の「メール一本」が効いていると思う。メールを打った主体は「鬼」ではあるが、「鬼」そのものではなく、「鬼として」という仮装の主体である。しかしあえて能動的に主体を変換させ、仮装させることによって、メールという本来は主体が透明な非人称化されていくようなメールメディアにおいて「鬼として」の〈凄み〉がでている。

 小銭じゃらじゃらメールアドレス聞いてくる  熊谷冬鼓

この句の面白いところは、「小銭じゃらじゃら」というアナログ的身体性を発散させるかたちで語り手に近寄ってくる人間が「メールアドレス聞いてくる」とデジタル志向である点だ。つまり、デジタルな主体にアナログな身体が追いついていないという見方もできるように思う。また「小銭じゃらじゃら」からは、スマートで過不足ないメールアドレスにくらべて、どこかでなにかが余剰していくぶきみさも胚胎しているように思う。おそらくそのぶきみさとは、わたしたちが身体的にデジタルにかかわるかぎり、裂け目としてとつぜん「じゃらじゃら」と噴き出すような生きるアナログとしての〈穴〉なのではないだろうか。

 受信トレイはドクダミの花真っ盛り  守田啓子

この句では「受信トレイ」というデジタルと「ドクダミの花真っ盛り」としてのアナログが、ごくナチュラルにつながっている面白さがあるように思う。「受信トレイ」はアナログ的な自然の受け皿としての〈土壌〉の役割をする一方で、咲きほこる「ドクダミの花」はメールがたまり羅列されていく様相がうかがえるように思う。デジタル/アナログの境界線が不鮮明になりつつあること。わたしたちはやがてデジタル領域にも〈自然〉を見出していくのではないかという批評的な感性のありかたがここにあるのではないかと私は思う。わたし(たち)が「ドクダミの花」をみるとき、まず向かうのはGoogleとしての〈土壌=花壇〉なのではないか。〈花〉はデジタルを通してしか触れえないデジタル表象としての〈花〉になってくるかもしれないではないか、という緊張感がここにはある。

また、花として選択された「ドクダミ」にも注意したい。ドクダミの白い花は実際は「花弁」ではなく、むしろ「葉」に近い花のイミテーションのようなものである。そうしたドクダミの花のねじれた特性は、受信トレイのメール一通一通の文面の真/偽がゆれていることの〈リアリティのゆらぎ〉のようなものをこの句に発現させているようにわたしは思う。

さいごに、メールはメールでも、手紙の句をみて、この文章をおわりにしたい。手紙がメールと違うのは、つねに行き先のアドレスがなまなましく直裁に表記してあることだ。メールはアドレス=宛て名だが、手紙には宛先=場がある。そしてその宛先にはときに〈歴史〉が付着したトポス(場所の意味/意味の場所)があらわれることもあるだろう。だから、あなたは託された手紙の宛先をみてはいけない。手紙の宛先とはときにあなたをかっさらう暴力性を秘めているのだから。

そう、手紙とは、暴力なのである。あなたのこころを、あなたのそんざいを、殴るちからだ。

しかし、それでも、やっぱり──あなたは、みてしまうだろう。あてさきを。みずからが〈誤配〉された手紙そのものであるかのようなふりをして──。

あなたは、ひらく。

 宛先に連れ込み宿とある手紙  須藤しんのすけ

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