【真説温泉あんま芸者】
それを「いのうえ」と呼ぶことにする
西原天気
とりあえず、「そう呼ぶ」ことにしたいものが、世の中にはあります。
例えば、
いのうえの気配なくなり猫の恋 岡村知昭
における「いのうえ」。
「いのうえ」が何なのかはさておき、「いのうえ」というものがあるとする。「いのうえ」が呼び寄せる概念の総体を「いのうえ性」と呼ぶ。そこがスタートです。
「これは例の〔いのうえ〕だよね」「そうそう、〔いのうえ〕成分、かなり濃い」
戯言ではなく、批評のタームとして。
※「マクガフィン」もヒッチコックがそう呼んだことから始まったようですよ(この場合、定義はしっかりあったわけですが)。
仮にここで少し考えてみると、俳句においてその語がその語である必然や理路を誰も見出だせないまま(/それだからこそ)読みのフックとなり、かつ読み手の心に留まり続ける語、それを「いのうえ」と呼ぶ、とでもしておきましょうか。どなかたが、もっといい定義・説明を考えてくださるでしょう。他力本願。ごめんね。
俳句の批評/鑑賞が、クリシェ(紋切り型)のグロテスクな塊に成り果てる前に、「いのうえ」に限らず、なんかこう、デバイスの工夫・発明のようなものが要るような気がしますですよ。マジで。
「いのうえ」の画像検索 |
1 comments:
おお、井上麻里奈っ
コメントを投稿