【八田木枯の一句】
多佳子恋ふ修羅修羅修羅と秋の蛇
角谷昌子
多佳子恋ふ修羅修羅修羅と秋の蛇 八田木枯
第三句集『あらくれし日月の鈔』(1995)より。
「穴まどひ」にはユーモラスな響きがあるが、「秋の蛇」は蕭条たるイメージをともなう。冷たい秋風に吹かれて草々は凋落へと傾き、まだ穴に収まりきれない蛇は、現世への執着を尾に曳きながらじっともの影に潜んでいる。
掲句では「秋の蛇」の動きが「修羅修羅修羅」とオノマトペで描かれた。「シュラシュラシュラ」との擬態語から、秋蛇の頼りなげに蛇行する動きや、口からのぞかせる割れた舌のひらめく様子が思い起こされる。また「修羅」の文字から、蛇の忌み嫌われるぬめっとした肢体や負った業をも思い起こさせる。
橋本多佳子の師、山口誓子は多佳子について、ゆるやかな「女坂」ではなく急峻な「男坂」を歩む俳人だと評した。すなわち男性俳人と競合するという厳しい選択をした女性俳人として弟子を讃え、かつ案じたのだ。多佳子の作家としての生涯は、「修羅」の道でもあった。
この句の「修羅」には、多佳子の俳人としての多難な生き方ばかりでなく、多佳子の句〈牡鹿の前吾も荒々しき息す〉のような動物的な激しさや艶も含まれているような気がする。かつて木枯本人から「たいへん美しい人」だとその魅力的な美貌について聞いたことがある。二十代の木枯は多佳子と交流があり、お互いに書簡をやり取りしていた。多佳子は「天狼」のホープである若き木枯の批評に真摯に耳を傾け、心を開いていたようだ。木枯にとっては母親ほど年齢差のある大先輩だが、憧れやほのかな恋心があったと思われる。掲句の「多佳子恋ふ」はあながち誇張ではなく、素直な心情吐露かもしれない。実際に木枯は〈多佳子恋ふその頃われも罌粟まみれ〉など多佳子を慕う句を多く遺している。「修羅」には、そんな男女の危うさも、さり気なく詠み込まれているのではなかろうか。
「天狼」に掲載された、多佳子の「心中」に関する随筆を読んだことがある。将来を悲観して、近くの沼で若き男女が入水し、その遺体が村人らによって引き上げられた。彼らの死の顛末の無惨さより、多佳子は来世を期して共に果てたことについて深い愛憐の情を表していた。情死の哀しさ、美しさに多佳子は心動かされたのだ。同じような美意識を木枯も抱いていた。それは、木枯が「心中」「入水」「情死」などのことばを偏愛することでも明らかである。
木枯には〈鳥辺山蝉の穴よりのぞき見む〉〈鳥辺山胸のあたりに手毬抱き〉〈あたたかき胸を合せる鳥辺山〉などの句がある。「鳥辺山心中」を念頭に置いて作られたこれらの句は、明らかに近松門左衛門の心中浄瑠璃から脈々とつながる心中物への深い傾倒を示している。その背景には、若くして亡くなった父が愛する浄瑠璃の世界を懐かしむ心が動いたのでもあろう。
木枯は道行を思わせる〈手をつなぎながらにはぐれ初夜(そや)の雁〉〈死ぬときはわらびばかりの山を越え〉を詠み、その行く末の〈心中して祭の笛をさがしませう〉〈入水のあとのひろがり手毬うた〉などと場面を展開させている。
近松は、芸の面白さとは虚実のあわいであるとの「虚実皮膜」という芸術論を信奉していたとも伝えられる。虚実の間を行き交う精神、虚のなかに具体性を持ち、実のなかの非現実性を突くという命がけの遊びこそ、まさしく木枯俳句の真骨頂である。
このように『あらくれし日月の鈔』には、近松の「虚実皮膜」の多大な影響が見られる。ほかにも、世阿弥、谷崎潤一郎の世界への傾斜も特徴として挙げられよう。それらについては、順次述べてゆきたい。
2014-10-12
【八田木枯の一句】多佳子恋ふ修羅修羅修羅と秋の蛇 角谷昌子
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