そのとき〈自然〉=〈わたし〉はどこにいたのか?
むさし句集『亀裂』の三句
柳本々々
エコクリティシズムが否定するのは心象風景論です。人間が外的風景を利用して内的風景の表象とすること、また風景が心理の客観的相関物となることを否定するエコクリティシズムは、人間こそが、自然の心象風景だと考えます。
大橋洋一「シェイクスピアと黒澤明映画の文化的可能性」『文学と映画のあいだ』東京大学出版会、2013年、p.36
耳裏の入道雲の湧くところ むさし
前頭葉も後頭葉も草だらけ 同
背中から不意に突き出る埋没林 同
むさしさんの句集『亀裂(東奥文芸叢書川柳9)』(東奥日報社、2014年)からの三句です。
この句集を読んでいてすぐに気がつくことは、〈自然〉にまつわることばが多い、ということです。そして同時に気がつくことは、その〈自然〉が出てくるたびに〈身体〉にまつわることばが呼び寄せられるということです。
「入道雲」「草」「埋没林」が〈自然〉にまつわることばですが、そこには「耳裏」「前頭葉/後頭葉」「背中」と〈身体〉をめぐることばが付随していきます。
そして、どの句も〈身体〉から〈自然〉が発生しています。〈自然〉の源が〈身体〉になっているのです。
ここで注目してみたいのは、「耳裏」「前頭葉」「背中」と、ふだんわたしたちが眼にすることのないような〈視えにくい場所〉がその発生源になっているところです。
視覚の及ばない場所、つまり日常の意識の〈死角〉部分から〈自然〉が湧きだしている。
ところがなぜか語り手はそれを〈視〉ているように記述しています。「湧くところ」「草だらけ」「不意に突き出る」といった実況的な語り口はそれをよく表していると思います。あたかも〈いま〉眼にしてそれをその動態をそのまま記述しているかのようなのです。
ここであらためてこの句集のタイトルをおもい起こせば、それは『亀裂』でした。〈亀裂〉にはさまざまな意味が込められているとおもいますし、それが分岐されてばらばらになっているからこその〈亀裂〉だとおもうのですが、そのうちのひとつの〈亀裂〉がここにみられるようにおもいます。
つまり語り手は、まず身体としての〈わたし〉を持っています。それは、もこもこ入道雲が湧いたり、わしゃわしゃ草が生えたり、にょっきり埋没林が浮上してくるような〈身体〉です。
しかしそうした〈自然〉としての〈身体〉のほかに、語り手はその〈自然〉としての〈身体〉の〈外側〉から、〈実況〉的に〈視〉つめている〈語る身体〉も持っています。言語的身体および川柳的身体とでもいえるような、〈視〉て〈語る〉身体です。
そしてその語り手の〈自然=身体〉と〈語る身体〉のふたつに〈亀裂〉した身体こそが、この17音の句のなかで〈亀裂〉として読み手にせまってくるのではないかとおもいます。
ここには言語表現のうえで大事な問題があるように思います。わたしたちは〈ことば〉を通してどれくらいわたしたちの〈死角〉に接近できているのか、という問題です。
「表象不可能性」として〈語られ〉ている領域さえも〈メタ表象〉として含みつつ、ことばはすべてを表象していきますが、表象するということは、その一方で、表象しそこねたものを同時に生産していく行為です。木を、海を、自然を、死を、セックスを、わたしを、表現したときに、そこには必ず表現しきれなかったものが残っていきます。しかし、その残滓を〈わたし〉はことばの力、表象のちからによって、すぐに〈忘却〉してしまう。
でもそこにはたしかに〈自然〉の発生源となるような、〈亀裂〉せざるをえない〈身体〉がある/ったはずです。語る身体の〈外〉にある〈身体〉。
この〈身体〉を〈実況〉的に〈発見〉してしまった〈亀裂〉にこの句集のひとつの裂かれるダイナミズムがあるようにおもいます。
語る主体にとっては、おそらく、いつだって、〈身体〉は語り尽くせない〈余剰〉となるはずなのです。
その語ることの〈余剰〉にいかに川柳は向き合うのかという、語る身体と自然と主体をめぐる〈課題〉がここにあるようにおもいます。
そこへ/から、どう、〈わたし・たち〉は、はみだし/でてゆくのか。
この世から少しはみ出ている踵 むさし
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