定型の檻/定型の匣/定型の瑕
矢島玖美子句集『矢島家』の一句
柳本々々
束縛なくして自由はない。つまり檻がなくては檻から出ることはできない。檻から出たがっている者は、先ず檻を造らなければならないんだ。 京極夏彦『文庫版 鉄鼠の檻』講談社文庫、2001年、p.1203
口あけて寝てる この人しかいない 矢島玖美子
『句集 矢島家』(乃村工藝社、2001年)からの一句です。
この句の〈この人しかいない〉性は、一言でいえば、〈檻〉としての575=定型が効果をあげているのではないかと思います。
ここには、短歌にみられるように、下の句で上の句を構造化し〈この人〉性をズラしたり、俳句のように季語を導入することで異なる体系を導入することもできません。〈ここ〉には「この人しかいない」。
この句の〈ふたり〉は、この句のなかに閉じこめられたままです。
では、定型の〈檻〉は、うちやぶることができないのか。
ここで定型を〈匣〉=「箱庭」として見立てた加藤治郎さんの歌をみてみたいと思います。
あかねさすきみと見おろすはつ夏の五七五七七の箱庭 加藤治郎「クラッカー・ボックス」『歌集 雨の日の回顧展』短歌研究社、2008年
加藤さんの歌には矢島さんの句のような〈わたし〉と「きみ」がいて「五七五七七の箱庭」を見おろしています。
ただここで注意してみたいのが「あかねさすきみ」という枕詞の導入です。
枕詞は辞義的には序詞と違い、「(あかねさす)(きみ)」というふうに修飾語と被修飾語との関係が固定化されたアレンジの許されない修辞として説明されますが、「枕詞の復活」という論考において〈現代短歌〉における枕詞の意義を加藤さん自身が次のようにまとめています。
現代短歌が、生き方の呪縛から解き放たれて〈遊び〉を取り戻したことが、枕詞の復活の背景だろう。(……)もともと、『古今集』以降衰弱してしまう前の枕詞は、自由闊達なものであった。 加藤治郎「枕詞の復活」『短歌と日本人Ⅲ 韻律から短歌の本質を問う』岩波書店、1999年、p.260このことばをふまえたうえで、加藤さんの短歌をもう一度見返してみれば、「あかねさすきみ」という風に「きみ」の枕詞として「あかねさす」は機能しているものの、「見おろす」「箱庭」といったことばが枕詞と共鳴しあい、そこには「五七五七七の箱庭」に「あかねさ」しているような、〈定型〉に陽光が射しているイメージが生成されています(枕詞「あかねさす」は、「日」「昼」「照る」にもかかる)。
つまり、枕詞を〈あえて〉用いることによって、〈匣〉としての定型に陽が射し、「きみと」いることの〈ふたり〉感や「五七五七七の箱庭」感が決して閉息したイメージにとらわれないものとなります。
枕詞はそもそもが定型の音律に沿うようにつくられていますから、定型に遵守するものが定型の〈匣〉を打ち破っているともいえます。
もうひとつ、定型のモチーフを加藤さんとおなじように詠んでいる野口あや子さんに次の歌があります。
定型を上と下から削りましょう最後に残る一文字(ワタクシ)のため 野口あや子「一文字」『歌集 夏にふれる』短歌研究社、2012年
この歌では「一文字」に《ワタクシ》とルビが振られているのですが、定型そのものに語り手が能動的に「削りましょう」と働きかけつつ、削る対象として定型を物質化しながら、傷痕のような「ワタクシ」という〈一文字=物質化されたワタクシ/物質化しえなかった私〉を析出しようとしています。「ワタクシ」と〈わたし〉を傷痕化して刻みこむことによって物質性の〈わたし〉が現れつつも、同時に、「ワタクシ」としてしか現れえない抑圧された〈わたし〉もここには潜在的にあらわれています。
定型を固守したさきに、ではなく、定型を削ると「ワタクシ」が出てくる。定型の〈論理〉を損ねることで、定型の瑕(きず)に〈わたし〉を生成しようとする。
ここでは、短歌が短歌を傷つけることによって浮かび上がってくる〈わたし〉の主題が含まれているように思います。
以上、短歌における定型ではありますが、定型というのは閉息感=檻としても機能すると同時に、〈匣〉の修辞によるひらきかた、もしくは定型の〈瑕〉を発見することによって〈外部〉への回路がひらくものだということがうえのふたつの歌からわかってくるのではないでしょうか。
では、もういちど矢島さんの句にもどって、ほんとうに語り手にとっては「この人しかいな」かったのか、かんがえてみます。
この句では、語り手が「口あけて寝てる」ひとをみたあとで、語り手が述懐するように「この人しかいない」と述べています。
この句の内容面においては、「口あけて寝てる」「この人しかいない」というふたつのカッコのあいだに〈創造性〉をいれることは許されていません。「この人しかいない」からです。「この人しかいない」根拠は、「この人しかいない」という定型の自己言及的根拠性にあります。「この人しかいない」から「この人しかいない」のです。
加藤治郎さんの歌のように修辞=枕詞を使ってズラすチャンスもなく、野口あや子さんの歌のように、この定型の檻の瑕を見いだす隙もありません。
しかし、ほんとうに、そう、なのか。
ここでもう一度この句の構造にたちかえってみたいと思います。
定型上この句は「口あけて/寝てるこの人/しかいない」と、定型の檻のなかでは語り手は「寝てるこの人」といっしょにいます。
しかし語り手はこの定型のありかたに〈瑕〉をつくり、定型をこわし、「口あけて寝てる この人しかいない」と、「寝てるこの人」という〈枕詞〉のような密着ある修辞をひきはがし、「寝てる この人」という一字アキの〈瑕〉をつくりました。
そのことによって定型の〈間隙〉のなかで思考する語り手が現れてきます。
「口あけて寝てる」と「この人しかいない」のあいだの永遠に空けられた一音のなかで語り手は考えています。「(ほんとうに)この人しかいない(のか?)」と。
それがこの句のみいだした〈瑕〉です。
ですから、一字アキが入ったことによってこんなふうに読みとることも可能になったと思います。
「口あけて寝てる」と語り手が「口あけて寝てるひと」を描写した後、その直後の一字アキのなかで語り手が他の誰かを脳裏に定め、「この人(その人)しかいない」と決意する。
つまり、ここには語り手〈わたし〉と「口あけて寝てる」ひとのほかに〈この人=その人〉という〈さんにんめ〉がいたのだ、と。
「この人」は語り手の「この人」ではあるが、定型の檻のなかに「口あけて寝てる」「この人」ではない、語り手の脳裏や胸中にいる〈その人〉です。
この句の定型の〈檻/匣/瑕〉のなかには、この読み手である私(柳本)にも、あなたにも、「口あけて寝てる」ひとにもわからない、語り手だけが知っている〈さんにんめ〉のひとがはじめからいたのではないか(そのひとは口を閉じてねむるひとかもしれない)。
そしてあえていうならば、語り手だけが〈真相〉を知っているであろうこの一字アキこそが、この句の〈私性〉なのではないかということができるようにも思います。
まとめてみます。
加藤治郎さんの歌では、枕詞という密着感ある修辞をみずから歌のなかでアレンジすることによって逆に枕詞によって開放される匣のなかの自由な〈わたし〉を見いだしました。
野口あや子さんの歌では、定型に瑕をつけることによって、そこに多層化される〈わたし〉の表層としての〈ワタクシ〉を導入する余地をみいだしています。
そのふたつが期せずして実践された句が、矢島さんの掲句だったのではないかと思うのです。
〈匣〉としての定型のなかにおけるズレと〈瑕〉をまさぐる模索。
そのとき、〈檻〉はうちやぶられるのではないか。
ふいに晴れ この世の抜け穴を探す 矢島玖美子『句集 矢島家』
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