【鴇田智哉をよむ1】
アートと抱擁の話
小津夜景
西洋における絵画的イメージを語るとき、その起源としてよく引き合いに出されるものといえば、ヴェロニカの布による「痕跡説」、ナルキッソスの泉による「水鏡説」、そして大プリニウス『博物誌』による「影説」といった3つの話。
「影説」の根拠となる文献はあまり耳にしませんが、これは「明日戦地に赴く恋人の姿をここに留めたいと願った女が、ランプの下で、その影の輪郭を壁に写しとった」という神話らしいです。恋人の姿ではなくその影を、というのが何ともいえず痛ましい。似姿など虚しいもの、むしろ面影こそを残したい、との想いでしょうか。
それはそうと、これら3つの説に共通するのは絵画の起源を「直接的に眺めたモノを絵にすること」ではなく「媒介物に映ったモノを絵にすること」とみなす、ちょっと驚いてしまうような前提。つまり絵を描くとは「外界の写生」でも「内面の表出」でもその折衷でもなく「かりそめの表象を再表象すること」と明確に考えられていたわけです。たとえばアルベルティなどはこのことを「ナルキッソスの技」とか「私の思慕する対象の映りこんだ像を技芸(アート)によって抱擁すること」とか言っています。
痕跡、水鏡、影といった媒体は、かすれていたり、ゆれていたりして、モノを鮮明に映すものではありません。またもし鮮明に映ったとしても、所詮それは像にすぎず、ほんものではない。そこに留まる表象はいつでも二重の意味で儚い像です。
で、そうした儚い像を技芸(アート)によって掬いとることが、すなわち絵画的イメージの創出である、という昔の人の考察ですが、こうしたイメージ論は絵画だけでなく言葉にも当てはまる気がします。
言語的イメージも、ここに存在しないものの「遺影」を書くことは言うに及ばず、ここに存在している「写し世」ないし「映し世」を書くという意味で、つねに表象のみを抱擁する作業ですから。
そしてまた、痕跡・水鏡・影にとどまらず、実に多様なディアファネースを抱こうとする鴇田智哉は、この文脈で言って純粋にアートしてるな、と思ったりもするのです。
複写機のまばゆさ魚は氷にのぼり 鴇田智哉
「コピー機」と「魚氷にのぼる」といった、知的な取り合わせ。これは作者がコピー機のガラス面を「水鏡」と捉えたことから起こった、いわば水つながりの配合でしょう。
この水鏡には、ほのぐらい像が映り込んでいる。そこを光が滑ってゆくとき、ほのぐらい像は一瞬水面に反射し、鏡像の転写=痕跡化という奇跡が起こる。
(これ、ふつうの人が見れば、単にコピー機がコピーにいそしんでいるだけの光景ですけれど。)
掲句のポイントは「まばゆさ」。強烈な露光を示すこの語が鏡の砕ける光景すなわち氷解のイメージを召喚し、さらにコピー機から飛び出してくる紙が、割れた氷から跳ね上がる魚と重なりあうといった見立て。
この作者は、実に、こんなことばかり考えて生きている人なんですね。
〈了〉
2014-11-16
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