【B面:松岡瑞枝を読む】
それでもすべてをとどめおくために
お別れに光の缶詰を開ける
柳本々々
電気照明メディアにおける魔術的な光の復活は、アドルフ・アッピアの照明哲学をもってはじまったが、その照明哲学の意味するものは、舞台照明の領域をはるかに超え出ていた。(……)焔の魔術が届かなかった人間の意識のさらなる深層に語りかける形で、二〇世紀の電気の光は、未曾有の効果をあげたのだった。
(ヴォルフガング・シヴェルブシュ、小川さくえ訳『光と影のドラマトゥルギー-20世紀における電気照明の登場』法政大学出版局、1997年、p.168)
『門』における「洋燈」のような、濃密な関係性の〈場〉を浮かび上がらせるあかり、ひとつの〈場〉を〈いま、ここ〉で共有し合っていることを互いにかみしめるためにともされているかのようなあかり
(柴市郎「あかり・探偵・欲望──『彼岸過迄』をめぐって」『漱石研究 第11号』翰林書房、1998年、p.82)
私はまだソクラテスの背後のプラトンという、あの啓示的な破局から立ち直っていない。
(ジャック・デリダ、若森栄樹・大西雅一郎訳『絵葉書Ⅰ ソクラテスからフロイトへ、そしてその彼方』水声社、2007年、p.22)
「火ここになき灰」という存在と非在の揺れ。
そうした存在と非在のゆれとしての〈憑在〔1〕〉をあなたに手渡すような句があります。
〈贈り物〉として。〈お別れ〉に。
お別れに光の缶詰を開ける 松岡瑞枝
松岡瑞枝さんの句集『光の缶詰』(編集工房・円、2001年)からの一句です。
この松岡さんの句をさまざまなレベルの〈お別れ〉に立ち会うたびに思い出すのですが、わたしはこの句にとっての大事なことをひとつ決定的に〈あえて〉忘れていたかもしれません。
忘れていたけれど、それは、〈憑在〉として、〈幽霊〉として、いつまでもこの句のなかでいきづいていた。
それは、〈光〉というものが、〈灰〉すらも残さない〈火〉である点、まさに「火ここになき灰」である点、いや逆に「光ここになき火」でさえもある点において。
小津夜景さんが引用しているデリダの書いたシナリオをもう一度ここで、わたしの文脈で引用してみます。
それはまさしく、かつて亡くなった⼈のことだったのよ。でも今はもう、その名残を保持しつつ喪失していくなにか、つまり灰になっている。それこそが灰なんだわ。つまりもうなにもとどめおかないために、とどめおくもの。そうして残余を散逸に委ねてしまうもの。だからもう、そこにあるのは、灰を残して消えただれかでさえなく、ただの名前[あるいは否(ノン)]、それも判読できない名前(ノン)なのよ。それとも、このテクストの署名者と称する者につけられたあだ名と考えたってかまわないわ。そこに灰がある。こうして一つの文は、その文がなすところのもの、⽂がそうである当のものを述べているのよ。(デリダ『火ここになき灰』)「その名残を保持しつつ喪失していくなにか、つまり灰になっている。それこそが灰なんだわ。つまりもうなにもとどめおかないために、とどめおくもの。そうして残余を散逸に委ねてしまうもの 」とデリダは書いていますが、「光」は逆の事態が起こる場所になる。
つまり、このセンテンスを〈光〉から逆立ちさせてみれば、《その名残を喪失しつつ保持していくなにか、つまり光になっている。それこそが光なんだわ。つまりそれでもすべてをとどめおくために、とどめおかないもの。そうして散逸を残余に委ねてしまうもの》。
光、とはそうしたものではなかったか。
ひかりには、散逸してしまうからこその、消えてしまうからこその、〈痕跡〉がある。
そしてそれは亡霊=幽霊=火ここになき灰のように名づけられないもの、名づけえないもの、しかし/だから、ただの〈名前の幽霊〉として〈そこ〉にただよいつづけるものです。
お別れに光の缶詰を開ける 松岡瑞枝
〈光〉とは、幽霊的痕跡である。
ただわたしはその一方で、実はこの句はみずからでみずからの句のありようを解体している、デリダのタームでいえば、〈脱構築〔2〕〉しているのではないかとおもったりもするのです。〈光〉に沿って、〈光〉によって、みずから放つ〈光〉そのものを。
この句を定型にそって、解体してみます。
おわかれに/ひかりのかんづ/めをあける
めを、あける。
こんなふうにこの句は、「缶詰を開ける」のなかに、下五としての「めをあける=眼を開ける」という違った意味の位相を潜在的にかかえこんでいます。
「お別れ」のさなか、〈光の缶詰を開け〉つつも、この句自体が〈光〉のなかでいままさに〈眼をあけ〉ようとしている。〈眼をあけ〉て〈見る〉のは、〈わたし〉かもしれないし、〈あなた〉かもしれない。〈わたし〉でも〈あなた〉でもない〈亡霊〉としての名も無き〈痕跡〉かもしれない。光、かもしれない。
しかしその〈痕跡〉を覆い尽くさんばかりの〈光〉にこそ、わたしはこの句における〈光〉としての抵抗をみるのです。
缶詰からあふれた光は、一方では、幽霊的痕跡としての光かもしれない。名も無き〈痕跡〉として〈呻き〉つづけるかもしれない。《なにもとどめおかないために》光りつづけるひかりそのものかもしれない。
でもその一方で、その光は、〈わたし〉と〈あなた〉を、〈めをあける〉行為を介して分離させつつも、受肉化させる〈光〉=〈場〉の生成として機能したのではないか。なんのために?
それでもすべてをとどめおくために。
幽霊も、亡霊も、幽霊の声も、亡霊の叫びも、火も、灰も、火ここになき灰も、光も、偶然性と複数性の記憶も、ここには、この場には、缶詰をあけてあふれくるう光のさなかには、ない。《なにもとどめおかない》。
でも、たったひとつ、いま「お別れ」のこのときに、わたしが、あなたが、いま、ここ、で、〈眼〉にしている〈光〉景は、《それでもすべてをとどめおくために》たしかにここにあるのだ、と。
同一性(アイデンティティ)を持ちたくないわけではない、とデリダは明言している。しかし彼には幽霊の声(叫び)が聞こえる。それは彼の同一性が決定された瞬間の、偶然性と複数性の記憶である。何故あなたはデリダなのか光の缶詰を開ける。
(東浩紀「幽霊に憑かれた哲学」『存在論的、郵便的』新潮社、1998年、p.70)
眼を開ける。
だから、わたし/たちは、決まって、いつも〈お別れ〉を失敗してしまう。
〈光〉は〈光〉として、〈お別れ〉を未遂させてしまう。
何故お別れしようとするあなた《も》デリダなのか。
それはたぶん〈わたし〉と〈あなた〉が〈光〉でもって容易に〈融合化〉されえないような〈ちがう〉ものだから。
だからこそ、逆説的な光として、問いは、つづく。
「何故お別れしようとするあなた《も》デリダなのか」。
そういえば、松岡瑞枝さんの句集『光の缶詰』は、こんな光の一句で、おわっていました。
一粒のビーズつながれずに光る 松岡瑞枝
あなたとわたしが「つながれずに」、けれども、あなたもわたしも限りなくひかりあふれだして、祝福の、祝祭の、ひかりのなかで、あなたもわたしも〈幽霊〉として思い出している、時間を祝祭的に倒錯させながら、別れはいつもそれが同時に出会いであったことを、あなたとわたしの別れそのものが出会いをもそのままに意味していたことを、だから、
ランプが君臨したところには、思い出が君臨している。
(ガストン・バシュラール、澁澤孝輔訳『蝋燭の焔』現代思潮新社、2007年、p.26)
【註】
〔1〕「幽霊の回帰がもたらす倒錯的な時間/世界にのみ、ほの見える倫理があるという。(……)デリダは、自己に先立ち自我を規定する亡霊の視点から、存在の別次元を見出そうとする。幽霊に取り憑かれるがゆえに、自己同一的な実存意識を攪乱され、悩み、苦しみ、憂鬱を訴える人間の存在性を、デリダは「憑在」と呼んでいる。」(新田啓子「回帰する場」『アメリカ文学のカルトグラフィー─批評による認知地図の試み』研究社、2012年、p.177)
〔2〕「脱構築は、反対に、「終局=目的性をもたない奇妙な戦略」である。それは、現前の本性や「終わり=目的」の意味するだろうものについて独断的に前提するいかなる種類の宗教的、あるいは、政治的言説であろうとも問い返していく批判的な営みを力づける」とニコラス・ロイルは説明する(ニコラス・ロイル、田崎英明訳「自由であれ」『ジャック・デリダ』青土社、2006年、p.73)。脱構築とは、未然形の経験の終わりない継続ということもできる。それは、遂行ではない。なされ、えない。だから、ずっと、つづく。つづいて、ゆく。
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