2014-12-14

川柳大会の選句をしました 西原天気

川柳大会の選句をしました

西原天気


ある日、「川柳大会の選句をせよ」とのメール。

『川柳カード』の誌上川柳大会。その選句です。ウラハイその他でお世話になりっぱなしの樋口由紀子さんからの依頼とあっては断れるはずがありません。私ごときがそんな大役を果たせるはずがないという思いはもちろんありましたが、謹んで承諾いたしました。

お題は「世界」と「早い」。投句一覧が届きました。それぞれ288句(!)。ここから特選1句、準特選2句、並選37句を選ぶ。ハードな作業の始まりでした。

私の選句と選評は『川柳カード』第7号に掲載されていますが、以下は、そのロングヴァージョン。指定された行数を私が勘違いしてしまい、ほぼ倍の量を書いてしまった。そういう経緯があってのロングヴァージョンです。なお、作者名は、今回の掲載時に補記させていただきました(選句時点ではもちろん伏せられていました)。



「世界」は多義的・多層的です。例えば「盆栽の世界」というふうに特定業界をさすのに用いられる一方で、広く捉えれば、この世・あの世のすべて。私たちはひとり残らず、すべての事物はひとつ残らず、「世界」に含まれる。その体で行けば、何を詠んでも「世界」というテーマからはずれることはありません。

炭酸のように原田は辞めました 村山浩吉》という句は、「世界」を狭義に、というのはつまり特定業界・特定組織を辞めた原田を詠んでいるように見えて、広義の「世界」での出来事のようにも思えます。それにしても「原田」って誰だ? そんなツッコミ待ちの、この句の挙措がまず可笑しい。

「炭酸のように」は「消える」の直喩としてはシンプルすぎるほどわかりやすいものですが、人に、それも「原田」という特定個人に宛てるとなると、妙に爽やかに、同時に哀しく感じられるものでもあります。「世界」ではいろいろなことが起こります。

さて、私と私たちをすべて包摂する「世界」ではありますが、私たちが〈私〉を感じたり認識したりするスタイル上、〈世界〉は〈私〉と対峙したりもします。〈世界〉とは違う場所(そんなところはないのでしょうが)から〈私〉は〈世界〉にやってくる(生誕)。《世界ですか世界ですかと呼ぶ電話 石田柊馬》の発話者たる〈私〉はここが、そこが〈世界〉かどうかを確かめているかのようです。「問う」のではなく「呼ぶ」のですから、ポジティブ。この人は〈世界〉と出会う用意があります。

生誕=〈世界〉の始まり、と捉えた句は他にもありました。《初めましてわたし「世界」と申します 街中悠》は掲句の返答のような句。《バスタブを洗い世界を待っている 吉松澄子》《(目を)(ひらけ)(世界は)たぶん(うつくしい) 川合大祐》等。

生まれてのちも、〈世界〉は未生成という部分も、〈私〉との関係においては当然ありまして、《いもうとの世界はいつも工事中 石原ユキオ》なわけです。「いもうと」は昨今、虚構の装置として食傷気味の仕掛けでありますが、それだけにむしろ批評的な句にもなっているともいえます。

あとは紙幅の許すかぎり、いただいた句について。

げっぷしたあとのとんちんかんな世界 樋口由紀子》は身体感覚としてよくわかる。《折り畳み椅子ばかり並んでいる世界 米山明日歌》《ちっぽけな世界洗濯器が回る 石橋芳山》は現代的で身近な寂寥。《世界図に似せて解体される象 川合大祐》はヒンドゥの世界観を彷彿。

世界中に降る使用後の風船 北村幸子》《毛髪を集め世界を慰める 榊陽子》《世界中絡まっている蛸の足 草地豊子》等は異形ならぬ異景として迫力。

フェイスブックの裏は魔界でありました 赤松ますみ》《お豆腐の中の世界で眠りたい 斉尾くにこ》等は口調の可笑しみ。

脱ぎ終えて世界に幕をひく百足 飯島章友》《しがみつく薔薇象虫の象世界 津村ゆき》の微視も世界の一様相ですね。

のど飴を世界の果てで舐めている 中川喜代子》と《世界のど真ん中に馴染みの酒場 新家完司》は対照的。場所を交換しても興趣か。

楽しませていただきました。ありがとうございます。



ことばをあつかう人たちが集まっている場所で、こんなことを言うのもなんですが、ことばにかならずついてまわる意味、これがなかなか厄介で難儀なものでして、川柳であろうと俳句であろうと、意味を因習的に使用するだけなら句にすることもない、というよりそれは読み手に退屈しか与えないでしょう。そこでいろいろと苦労をする、作り手のその苦労の有り様を読んで楽しむという部分がたしかにあるようです、読み手としては。

さて。《22時04分のフグの毒 井上一筒》という句にさしたる意味はありません。そこが気持ちがいい。「伝えようとしない」という態度はとても重要です。「22時04分」という言い方はまるで研究者か医療者のようだ、といった興趣の見つけ方もできますが、かといってそれが何かの意味・意義をもつかといえばそうではない。「にじゅうにじぜろよんぷんのふぐのどく」と五七五定型の「音」の調子がこの句の主要成分です。

空気抜いたらホッテントットのおばさん 勝又明城》はダッチワイフの句。「ホッテントット」という語をひさしぶりに見ました。「ホッテントット」との唐突な出会い。空気を抜いた作者もきっと唐突に出会ったにちがいありません。こうした体言止めは末尾に「!」が省略されていると読むべきでしょう。

砂浜で鳴る早熟なサキソフォン 本多洋子》は三つの部分(砂浜、早熟、サキソフォン)がそれぞれ豊富なコノテーション(言外の意味)をもちながら、非・因習的、非・散文的にぶつかり合うことで意味が無化して(俳句では攝津幸彦的手法)、ポエティックな作品。

ほか、おもしろかった句を気ままに。

すぐ判るように円盤から降りる 石田柊馬》は宇宙人目線という素っ頓狂。

スタッフは早く原野に来いという 小池正博》《有頂天早い話が耳だった 桑名知華子》《血圧は低い 決着をつけよう 佐藤幸子》等、「事情のわからなさ」が心地よい。

早喰いの男普段は暇という 斉藤幸男》は、たしかにそうかもしれない、という納得感の裏で、情報としては徹底的にどうでもよく、そこが可笑しい。

昨日今日流れの急な片乳房 岩根彰子》《蛍吐いたのは十七の秋でした 守田啓子》は、湿潤になりがちな身体モチーフを、語の「関節外し」や奇想によって、からっと仕上げた。

単純計算しても一人 榊陽子》は理屈=因習的な意味構成の域を出ないかもしれませんが、「咳をしても一人」(尾崎放哉)の乾いたパロディ。《…早送り…二人は……豚になり終 川合大祐》は表記の妙で楽しませる。

ひとつ残念だったのは「早い」というテーマから早漏を詠んだ句が多く、いずれもつまらなかったこと。エロな句が悪いというわけではありません。バレ句ならバレ句の趣向が要ります。飲み屋でオヤジが口にするエロネタ並みかそれ以下なら句にしないこと。それが目安です。


『川柳カード』ウェブサイト
※購入その他、こちらから連絡がとれると思います。

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