俳句の自然 子規への遡行37
橋本 直
初出『若竹』2014年2月号 (一部改変がある)
明治二十八年、正岡子規は新聞「日本」に『俳諧大要』の連載を始める。『俳諧大要』は、いわばこの時の子規における俳句のマニフェストといった趣のある書物である。重要かつ興味深いのは、その冒頭部において子規の俳句の定義がなされていることである。以下、これを引用しつつ検討する。(引用文は岩波文庫版による。)
一、俳句は文学の一部なり。文学は美術の一部なり。故に美の標準は文学の標準なり。文学の標準は俳句の標準なり。即ち絵画も彫刻も音楽も演劇も詩歌小説も皆同一の標準を以て評論し得べし。
子規は、演繹的に俳句が文学であり文学が美術であるならば、俳句を含めた文学芸術全般が同じ基準、すなわち「美の標準」をもって評論できるという。この、俳句を文学として「美」をもって評論するという主張が、時代における子規の新しさであったと言って良いだろう。
しかしながら、同時にその「美」がけっして一律ではないことについて子規はかなり字数を費やして述べる。
一、美は比較的なり、絶対的に非ず。故に一首の詩、一幅の画を取て美不美を言ふべからず。もしこれを言ふこれらを概括して言えば、文学としての俳句の評論の物差しとして「美」が存在するが、それはただ一個の作品にそれぞれ固有絶対的に見出されるようなものではなく、ある個人が多くの対象に対し知覚しえた「美」の積み重ね経験の結果、その差異の中から見出すような質のものであり、ゆえにその「美」の標準は、個人個人の差においても異なり、またそれを見出した個人も、その時々の「感情」においてその「美」に変化がありうる。仮にその個人以前に、所与のものとして絶対美の標準があったとしても、それがどういうものかはわからないし自分の言う「美」とは関係ない、というのである。
時は、胸裡に記憶したる幾多の詩画を取て、暗々に比
較して言ふのみ。
一、美の標準は各個の感情に存す。各個の感情は各個別なり。故に美の標準もまた各個別なり。また同一の人
にして、時に従つて感情相異なるあり。故に同一の人
また時に従つて美の標準を異にす。
一、美の標準を以て各個の感情に存すとせば、先天的に存在する美の標準なるものあるなし。もし先天的に存
在する美の標準(あるいは正鵠を得たる美の標準)ありとするも、その標準の如何は知るべからず。従つて各個の標準と如何の同異あるか知るべからず。即ち先天的標準なるものは、吾人の美術と何らの関係を有せざるなり。
これを「美」(あるいは文学)という記号の意味内容をめぐる考察としてその先を推し進めてゆけば非常に興味深い議論となりうる内容なのだけれども、ひとまず子規はその「美」に対する個々の差を以下のように埋めようとする。
一、各個の美の標準を比較すれば大同の中に小異なるあり、大異の中に小同なるありといへども、種々の事実より帰納すれば全体の上において永久の上においてほぼ同一方向に進むを見る。譬へば船舶の南半球より北半球に向ふ者、一は北東に向ひ一は北西に向ひ、時ありて正東正西に向ひ時ありて南に向ふもあれど、その結果を概括して見れば、皆南より北に向ふが如し。この方向を指して、先天的美の標準と名づけ得べくば則ち名づくべし。今仮りに概括的美の標準と名づく。この文における「種々の事実」が具体的に何を言うのかはっきりしないが、「美」の感じ方は先の通り個々に差があるものの、向かう方向は同じだ、と子規は言う。一見雑駁な物言いのようであるが、たしかにこの世界にまるで「美」とよばれるものに共通する何かがないのなら、「美」という概念を記号でくくることなどできはしない。むしろわれわれは、そうくくることによって人に共通する「美」の意味内容を継続的につくり出しているのであり、子規は子規なりにそれを「概括的美の標準」と名づけていると言えなくもない。
あるいは、例えばこの子規の言を視覚的な分野に限って言い換えれば、ある美しい景色の場所にそれぞれが個々に違うルートで向かったとしても、最終的に全く同じ地点に立ち、同じパースペクティブを共有できれば、個々の差を超えて全く同じ「美」を知覚として共有できる、という風に到着点を仮定してみることもできるかもしれない。
一、同一の人にして、時に従ひ美の標準を異にすれば、一般に後時の標準は概括的標準に近似する者なり。同時代の人にして各個美の標準を異にすれば、一般に学問知識ある者の標準は概括的標準に近似する者なり。但し特別の場合には必ずしも此の如くならず。このように、子規のこの一連の思考は、概念の意味内容や知覚の共有についての興味深い問題をはらんでいるのだが、子規は最後のところで、例外はあるが人が「美」を知覚する心の働きは、経験と学問を重ねると似てくると言う。そうすると、子規のこの思考も、いわゆる近代の素朴な進化論的思潮の影響の一環ととらえるべきなのかどうか。
(『俳諧大要』「第一 俳句の標準」)
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