【鴇田智哉をよむ 7】
息する影
小津夜景
前回はこゑの「ゑ」がどうのこうのと、かなりテキトーなことを書きました。今回は、本当にポワンカレを研究していたマルセル・デュシャンの話をします。
デュシャンといえばレディメイド。それ以外にも彼は糸や、ガラスや、埃や、空気や、匂いや、響きなど、さまざまな素材に興味を示し、それらを「自作」にしてしまった人です。
そのせいか、よくデュシャンに関して耳にする事案に「つまり彼は何を創造したのか?」といった問いがあります。こうした問いに過不足なく答えるにはそれ相応の経緯を追わねばならず、下手をするとこの雑文に戻って来られなくなるので今はその原点のみをかいつまむと、デュシャンという人は物質の〈影と運動〉を創造していたのでした。
Marcel Duchamp, Porte-bouteilles(壜掛け), 1914 |
デュシャンに関する書籍で残念なのは、運動はともかく、影が出ないように撮影された図版が割と多いこと。このような図版は、彼自身の語る制作目的のひとつが〈対象から影を取り出すこと〉だったことから言って何も映っていないに等しく、また見る側からしても味気ないものです。
Marcel Duchamp, Porte-chapeaux(帽子掛け), 1917 |
デュシャンにとって〈対象から影を取り出すこと〉は、物体がその影へと投射される時うっすらと立ち上がる揺らぎ、言いかえれば「誤差のかくれんぼみたいなもの」(北山研二)を現前化しようとする試みです。彼はこの次元移動の際に見え隠れする「誤差のかくれんぼ」を色々な言い方で語っています。曰く〈別次元の乱入する場〉〈現前と不在とのあいだにある一瞬の差〉〈見え隠れする異次元〉〈時空的なゆらぎやずれにおいて露呈するもの〉〈感覚ならびに認識の限界値〉〈ちらっと見ると現れ、目を凝らすと逃げ去るもの〉〈一秒後の世界=別世界〉などなど。そのうちに彼は影のみならず、さまざまな〈次元移動の限界閾〉をめぐる問題を全部ひっくるめて「アンフラマンス=極薄」と呼ぶに至りました。
Marcel Duchamp, Roue de bicyclette(自転車の車輪), 1914 |
で、ここから鴇田智哉の話なのですが、彼の作品というのはぱっとみたところ非常に現象学に近い感じがある〔*1〕。ですが仮に鴇田の趣向がそれだけに関係していたとしたら、その句はもう少し独我論的なこだわり、というか「ややありえない感覚」に偏った平凡なものになっていたんじゃないかなという気がします。もちろん実際の鴇田はそこを上手く避けている。そしてそれだけでなくとても軽い。この〈軽さ〉については、うっすらした〈動き〉を作品に織り込むことによって実現している、と推察できます。
André Raffray, L’’ombre du porte-bouteilles de Marcel Duchamp (マルセル・デュシャンの壜掛けの影), 2005 |
この〈軽さ〉と〈動き〉は、鴇田の〈次元の移動〉への眼差しから生じたものではないか。またこの眼差しこそが、鴇田の作品を、身体論べったりの俳句から皮一枚隔てる役割を果たしているのではないか。そして鴇田の原点である延長、移動、推移、枯渇などを担う「線をひくこと」と、ちらついたり、ひらめいたり、ぼんやりしたり、密集したりなどの様態をとる「半透明性」との二点は共に〈次元の移動〉を引き出す装置でもあるのではないか——デュシャンのノートを読みながら、私は今こんなふうに考えるのです。
石ながくのびてゐるなり秋の風 鴇田智哉
この句は「風の布」たるディアファネースを介して、作者が「影の伸び」といった線的運動に立ち会っている光景です。清しい秋の美しさと、ひんやりとした風、そして長く伸ばされたことでより存在感を増した石の佇まい。この佇まいに眼を向けるとき、きっとこの作者には、同一のもの(=石)の異なるありよう(=本体とその影)が示す〈存在のずれ〉や〈現前と不在とのあいだにある一瞬の差〉に潜む息づかいが感じとられていることでしょう。
まばたくと手の影が野を触れまはる 鴇田智哉
こちらは「まばたき」によって〈一秒後の世界=別世界〉が生じるたび、手の影のヴェールがちらちらしつつ、野に線を乱れ引くシーン。この句の「まばたき」とは正しく〈別次元の乱入する場〉の引き金に相違ありません。
今までこの連載では、イメージの根源の三大柱である「水鏡説」と「痕跡説」をたびたび句解の補助としてきました。しかし残りの「影説」については『凧と円柱』に適合しないものと私は判断します。掲句に見られる影は〈本体を失った亡殻〉というよりも、むしろもともと石や手の中に内在しそこから〈生み出された別の生命〉というのがふさわしい。どうやら鴇田にとって影とは、三次元とは違う流儀で世界を深くかつそこはかとなく呼吸するとても不思議な生き物のようです。
そして、ひとつの次元から別の次元へと抜けるこのアンフラマンスな通路のことを、実は私たちはよく知っている。極薄な息づかいの聞こえるその通路を、私たちは日々〈忘却〉という様式で奇跡的にくぐり抜けているのです。
可能なるものは生成を内包する——一方から他方への移行はアンフラマンスにおいて起こる。《忘却》のアレゴリー。(Duchamp, Notes)
Philippe De Gobert, L'atelier de Marcel Duchamp(マルセル・デュシャンのアトリエ), 2009 |
〔*1〕
『凧と円柱』の印象については「プラトン的なところというか、いったんイデアを通して具体に行く作業がある」という関悦史の意見(2014/10/13紀伊国屋トークイべント)も非常に共感でき、この視点からも句論が編み得ると思われます(そもそも『凧と円柱』というタイトルからして古代幾何学の香りがしますし、私も最初手にしたときは、プラトンっぽいなとか、『こゑふたつ』が生成の句集なら『凧と円柱』は制作の句集だな、といった印象を持ちました)。いずれにせよ、この関の指摘はトポロジーの話題も含めた「世界の幾何学的把握」が鴇田にとって欠かせない方法であることの示唆だとみなせるでしょう。
〈了〉
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