俳句の自然 子規への遡行41
橋本 直
初出『若竹』2014年6月号 (一部改変がある)
数句程度ではなかなか見えてこない作家の個性が、句集になると見えてくる、という話はよく聞くところである。一冊にまとまってしまえば、作品に「私」が出てきにくい俳句という表現形式にも、いやおうなく俳人の作家性がみえてしまうということなのだろう。いやむしろ、そのような個性を読んで貰うために句集を纏める、というほうが正当であろうか。
だが、ここまで見てきたように、生前に個人句集を出すということがなんの違和感ももたれなくなったのは、この百年のなかで、そこまでの階梯をのぼってきた結果なのであり、俳句の近代においては、個人句集の黎明期の俳人達は、生前に句作を一冊にして世に問うことを、本来あるまじきこととする抵抗感の中で行っていた。最も早い子規や青々、虚子の句集すら、北村透谷『蓬莱曲』、与謝野鉄幹『東西南北』、島崎藤村『若菜集』、土井晩翠『天地有情』、与謝野晶子『みだれ髪』などの明治近代を代表する詩歌集の後塵を拝している。
今から見れば、それは奇妙な事態に思われる。そもそも何が彼らを抑圧していたのだろうか。さらに言えば、その後に続いたのが、岡本癖三酔や高田蝶衣ら、いまやあまり著名とも言えない俳人であることも気になるところである。また、以前引用したとおり、彼らの句集の序文で当時の句集出版のタブーを充分意識した文章を残している中野三允も同様であるだろう。今回、彼らを中心に稿を進めてみたい。
ひとまずのキーパーソンは子規と虚子ということになるだろう。松瀬青々は明治は二年生まれ。子規門で、虚子の下で「ホトトギス」編集に携わった後に関西に戻り、句集を出し関西俳壇の重鎮として活躍した。癖三酔は明治一一年生まれ。子規門で、虚子の下で「ホトトギス」の選者を務めたこともある。三田俳句会を起こした。蝶衣は明治一九年生まれ。淡路島の洲本中学で子規門の大谷繞石の影響を受け句作。このころは上京し早稲田に通っていた。三允は子規門で明治一二年生まれ。早稲田俳句会を起こした。
このように、みな子規にゆかりのある人々である。さらに、癖三酔、蝶衣、三允らのもう一つの共通点は虚子の鍛錬句会の仲間であったことなのである。
私等仲間の蝶衣、東洋城、癖三酔、松濱、三允等と共に、後に『俳諧散心』を称えました、さういふ句会を催しまして俳句を作ることをやりました。これは、この頃碧梧桐が『俳句三昧』をとなへて、碧童、六花などといふその門下の人々と一緒に俳句の修行をしてをつたのに対して、私等仲間の人々が、負けずにやらうといふやうなところから起つた具合でありました。(高浜虚子「俳句の五十年」)この虚子等の句会は、「俳諧散心」、「蕪むし会」、「日盛会」など参加者と名を変えつつも明治三九年から四一年にかけて断続的に開催されている。これがちょうど、個人句集が相次いで出版されていた時期と重なる。つまり、句会と句集のメンバーが既に逝去した子規と関西に移住した青々をのぞき重なっており、かつ、彼らはこの句会の中核であった。
そもそも、彼らの自意識は、おそらくは蝶衣を除いて、子規の直弟子という意味でフラットであり、虚子に師事するという意識はあまりなかったのではないか。つまり、虚子の意向を無下にはしないが、弟子として服従するような立場でもない。むしろ競う立場にあった。そこでこの句会が若い彼らの創作意欲と発表意欲を刺激したことは、後の句集出版につながったと考えてもそう不自然なことではないように思われる。
さらに言えば、碧梧桐のグループがこの頃はタブー通り句集を出さなかったのに対して、虚子の周辺の中から句集を出す人々が現れたことは、その後の両者の結果から見れば、案外に大きな出来事であったのかもしれない。この時期、虚子の関心は散文に向いており、碧梧桐は「ホトトギス」の編集に加わっていて、両者の対立は虚子の俳壇復帰後のように鮮明ではないけれども、このころ碧梧桐らになく、虚子の周辺にあったものと、後の虚子の「ホトトギス」の隆盛になんの連関もなかったとは思われない気もするのだ。
「俳諧散心」は三九年三月一九日から四〇年一月二八日までに四一回実施されている。虚子他メンバーの自宅や芝浦海水浴場などで行われ、おおむね五名前後が集い、一度につき三回、題詠・互選で句会が行われるのを基本としたが、雑談のみで終わることもあった。虚子を中心に、癖三酔、蝶衣、三允の他に、松根東洋城や岡本松濱、柴浅茅らが参加している。その松濱が残した句会稿で好点句の結果を読むことができるのであるが、余談ながらこの句会(第二二回)において、虚子の代表句の一つとされる、〈桐一葉日当りながら落ちにけり〉が読まれている。この時の題は「桐」。しかし、実はこの当日虚子の他に参加した東洋城と松濱に出句がなく、記録はあるが実質句会になっていない。
さて、明治末期において、個人句集の出版を抑圧していたものはなんだったのだろう。俳人達の言葉を鵜呑みにすれば、近世以来の伝統への同調圧力ということになろうか。前近代と無縁の詩はその軛に縁がなく、歌は「アララギ」と「明星」で違う。「明星」がこだわりなく個人歌集を出すのは、鉄幹が詩人でもあったからであろう。俳句においては、日露戦争後に勃興した知的大衆の登場と、その文学意欲の高まりがやがてこの抑圧を振り払う原動力になったのではないかと、いまは仮定しておく。
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