【八田木枯の一句】
さんぐわつは忌の多き月葉の雫
角谷昌子
第四句集『天袋』(1998年)より。
さんぐわつは忌の多き月葉の雫 八田木枯
日本で死亡率が一番高いのは何月だろう。新聞で訃報を多く目にするのは、やはり寒さの厳しい冬期だと思う。だが春浅い頃は気温の変化も激しいので、3月にも亡くなることが多いかもしれない。
木枯の全句集の中で「三月」の句は〈三月を路地の奥より繙きし〉のみで「さんぐわつ」では掲句のほか、〈さんぐわつのゆふぐれうすき紙を揉み〉〈さんぐわつの午後の紅茶の匙落とす〉など5句ある。同様に「六月」の例句は見当たらず、「ろくぐわつ」に執して俳句を詠んでいることが分かる。「ろくぐわつ」では〈ろくぐわつの月日や羽毛かたよれる〉〈かみそりはろくぐわつなかばにて斃れ〉〈銀どろのろくぐわつ鳥の肝を刺し〉など25句を遺している。
木枯にとって「三月」「六月」では、旧暦の趣が損なわれ、あまりにもすんなりと現代のカレンダー通りの印象となり、ふくよかな情趣を抱けなかったに違いない。それに対して「さんぐわつ」「ろくぐわつ」のひらがな表記だと、滑らかそうでありながら、どこかぎこちない微妙な屈折が生まれる。そんなちょっとした違和感を活用したのが木枯俳句の妙味だろう。
掲句〈さんぐわつは忌の多き月葉の雫〉は不安定な春の気候を反映して葉を濡らす雨雫を描いている。葉の縁にたまった雫が光をまといながらほつりと垂れる光景は哀しくも美しい。冥界へと旅立った、たれかれへの悼みも感じられる。日本では3月が会社や学校の年度末でもあるので、新旧交代のイメージが強い。逝く者、誕生する者へも作者は思いを馳せているのではないか。
木枯は『天袋』の後記に「師の山口誓子は五十歳のころに、私の句風は、いよいよ平淡に向うようであると言われ、蘇東坡の口吻に倣えば『外平らかにして、中深、淡にして実は滋』の句境を求められていた」と記す。人間探求派の中村草田男、加藤楸邨に惹かれながらも、敢えて誓子を師と定めた木枯にとって誓子は絶対的な存在だった。木枯には初心の頃から学んでいた「ホトトギス」に飽き足らぬ思いがあったが、それを満たしてくれたのが誓子である。対象の本質である「根源」を描かんとする姿勢、内容に即した文体駆使、ものとものとの間にある関係を描く力量、あらゆることを師から吸収し自家薬籠中の物とした。
私が木枯から『山口誓子の100句を読む』(飯塚書店)の執筆依頼を受けたのは、平成23年(2011)の1月のこと。実際に木枯から誓子に関する聞き書きを始めたのは3月の東日本大震災後だった。木枯逝去のまさに1年前のことである。その間もそれ以前も、木枯の口から「誓子」と呼び捨てにする言葉を一度も聞いたことがない。常に「誓子先生」だった。平成24年、この著書を脱稿した時、厚い原稿の束を目にして木枯は「これで誓子先生に恩返しできる」と喜んだ。そして出版を待たず、3月19日に穏やかに息を引き取った。87歳の生涯だった。そのちょうど1週間後の3月26日が師誓子の忌日である。奇しくも「忌の多き月」3月に師弟は黄泉に旅立ったのだ。
2015-03-15
【八田木枯の一句】さんぐわつは忌の多き月葉の雫 角谷昌子
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