2015-03-08

【石田波郷新人賞落選展を読む】 思慮深い 十二作品のための アクチュアルな十二章 〈第五章〉 田島健一

【石田波郷新人賞落選展を読む】
思慮深い十二作品のためのアクチュアルな十二章
〈第五章〉見慣れた世界で私に成り代わる、見慣れない誰か

田島健一




05.風の名(下楠絵里)

私たちは常に見慣れた世界に生きている。ときどき世界は私たちを驚かせることがあるがそれはごく稀なことだ。それは見慣れた景色からある種の枠組みがはずされて、突然見ず知らずの世界に書き換えられてしまったような出来事としか言いようがない。

夏日向だちやうの首の伸びにけり
  下楠絵里

私たちが世界を見慣れているという事は、世界をかつて1度見た事あるものとして、その見たことがある何ものかにあてはめながら世界を見ているということである。ややこしいのは、これは必ずしも「経験」と一致しないことだ。例えば、日々の通勤や通学のバスの中で少し眠ってふと目覚めたときに、見慣れているはずのバスの外の景色が突然見慣れないものに見えて、自分が今どこにいてどこへ向かっているのか分からなくなったというようなことはないだろうか。このとき私が失ったのはおそらく「経験」ではなく、もっと別の何かだ。

「私」を「私」として構成しているものは、このような「かつてみた見た景色」のあつまりで、いわば「私」が書く俳句が他の誰かのものと違っているのは、この「かつて見た景色」が私だけのものだからである。だから、バスで目覚めたときに見た見慣れない景色は、その瞬間、私から「かつて見た景色」が失われ、「私」ではない誰かの視線が「私」に成り代わってそれを見ているのだ。

膝を抱く胸のふくらみ寒牡丹
宛先のはらひ大きく燕かな
葉桜や一斉に手の挙がりたる


俳句における「切れ」とは、つまりは「意味」が切れるに違いないのだが、そこで「意味」が切れるということはそれを付与しているものとの関係が切れるということに他ならない。その「意味」を付与しているものこそが、私たちが世界を見慣れたものとして見るときの、それを支えている「経験」とは異なる「かつて見た景色」である。俳句では「切れ」によってその関係性が切れたとき、そこに「私」のものとは違う別の視線が入り込んでくるのだ。

万能ではない私たちの眼が、「私性」を離れて俳句に空間をひらく仕組みはこれである。ただし、この「経験」とは異なる「かつて見た景色」との関係性が切れたとき、それに成り代わる別の空間が別の誰かによって与えられるわけでは決してない。むしろそこには広々として何も無い部屋がひらいているだけである。
不思議なことに、そのような空間にひとびとは何かを置きたがる。そこに何かを置くことで、それを自分のものにしたくなる。そのようにして、それを見た「私」の視線を、作品の上であらためて支えてくれるのは読み手である。

囀や花束に白多くあり
薫風や鱗にひかり集まりぬ
炎天のガラスは指を傷つけり


そのようにして、私は私自身の「私性」を差し出し、見慣れない景色へ踏み出す。掲句において「囀」を聞くのは「花束」を持つ私とは違う私であり、鱗に集まる「ひかり」は鱗のものではなく、指を傷つけたのはガラスのみにとどまらない。「私」にとっての見慣れた景色は、「私」ではない別の主体によって見慣れない世界を常に指し示して躍動する。そこでは、「経験」は何一つ役立つことはないのである。

とはいえ、俳句は「ことば」によってつくられる。そこで書かれた「ことば」が、何か実体をもつ、ということは一体どういうことなのだろうか。「経験」が役立たない世界で、いかに「ことば」は支えられ、構成されつつ、俳句にかたちを与えるのだろうか。

〈第六章〉へつづく

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