2015-04-12

【八田木枯の一句】さかりにも戦死ざかりや花ざかり 角谷昌子

【八田木枯の一句】
さかりにも戦死ざかりや花ざかり

角谷昌子


さかりにも戦死ざかりや花ざかり  八田木枯

第四句集『天袋』より。

二十歳の木枯は昭和20年、終戦の年に召集令状を受けて出身地の三重県津市から浜松の航空隊へ向かった。だが不適格となり帰郷している。十代の時、肺浸潤を患っていた影響があったのだろう。合格しなかった木枯はその当時の思いを、安堵したとも、失望したとも語っていないが、きっと複雑な心境だったに違いない。自分は召集を免れたが、同年代の若者が戦場で命を散らしている。師である長谷川素逝も戦地の過酷な状況下で俳句を詠み、「ホトトギス」に戦場俳句が掲載されている。木枯が運命の分かれ道を痛切に味わい、反戦の思いを強く抱いたことは想像に難くない。大戦後、戦争にこだわり、生涯をかけて戦争詠を作り続けている。親しかった三橋敏雄や鈴木六林男らも一生のテーマとして戦争を詠んでいる。胸を噛む痛みから気を逸らさず、やむに已まれぬ思いで木枯は、自分なりの戦争を追及していった。

掲句〈さかりにも戦死ざかりや花ざかり〉の「さかり」を広辞苑で調べると、1)勢いが盛んなこと。2)体力気力が最も充実している時期。3)繁盛。4)発情すること。5)「・・ざかり」で「花・・」「女・・」「働き・・」などとある。

木枯は「戦死ざかり」という造語を用いて戦争に対する強烈なアイロニーを作品に籠めた。希望にもえ、将来に大きな可能性を抱いた若者たちが強制的に駆り出され、青春を剥奪される。さらに否応なしに次々と命を落としてしまう。そんな悲惨さをあえて「戦死ざかり」と表現したのだ。そして「花ざかり」の季語を添え、散りゆくいのちへのはなむけとした。いや潔く散る「もののふ」のイメージへの抵抗を試みて、従来の「花」の象徴する世界に挑戦したのかもしれない。

句集『天袋』では、この句のすぐ前に〈日の丸を振り振りゆけば死ぬ故郷〉がある。なつかしき故郷、愛するお国のために国旗の「日の丸」がちぎれるほど振られる中を出征し、命を捧げることへの痛烈な批判がある。ほかにも戦争をテーマとした、よく知られている句に、〈戦争をよけてとほりし玉葱よ〉(『あらくれし日月の抄』)、〈戦死して蚊帳のまはりをうろつきぬ〉(『夜さり』)、〈戦争が来ぬうち雛を仕舞ひませう〉(『鏡騒』)などたくさんある。最後の句集『鏡騒』のあとも〈戦争が来るぞ白蚊帳まくしあげ〉と詠んでいる。戦争を継続して詠むことには木枯のなみなみならぬ使命感が感じられる。いずれの句も決してスローガン俳句に陥らず、定型を最大限に活かし、かつ諧謔精神が漲っているのが、木枯の戦争俳句の特色だ。

木枯逝去から今年三月で丸三年が経った。国民の意思を軽視して戦争のできる国へと拍車がかかる。木枯が存命であったらいかに詠んだだろうか。


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