【石田波郷新人賞落選展を読む】
思慮深い十二作品のためのアクチュアルな十二章
〈第八章〉ことばになる前の感情の森に降る善良なる雨
田島健一
08.はばたくもの(辻本鷹之)
〈感情〉というものは本来言葉で表現することができないものだけれど、私たちが〈感情〉を表明するときはことばで表現する。「面白い」「嬉しい」「哀しい」「楽しい」「つまらない」これらはすべてことばである。
かざぐるま根本をきつく握りしめ 辻本鷹之
ことばは何かを表現しているけれど、同時にそこにある〈感情〉のいかほどかはこぼれ落ち、失われる。掲句もまた、かざぐるまの根本を「きつく握りしめ」たという行為を表現しつつ、その行為を生み出した原因となったであろう〈感情〉はことばの裏側に隠されていて、私たちはそれを句として書かれたことばの上から推し量るしか手はない。
俳句において作者と読み手との間に生じる最も重要な構造は、そこに隠されている〈感情〉を過不足なくつたえることの不可能性に支えられている。
うつくしき頭の並ぶ卒業歌
たとえばジェットコースターに乗った後、ある人は「あー、楽しかった。また乗りたい。」と言い、ある人は「あー、怖かった。もう二度と乗るものか。」と言ったとする。
このとき、「楽しい」「怖い」というのは、そこに生じた〈感情〉をことばで表現したものであって、その時点で実際にそれぞれの人が感じた身体的な感覚とそれによって発生した〈感情〉の総量のいくらかは失われている。
〈感情〉は私たちが知っている範囲での語彙に集約されて表現される。そこで表現された語彙によって私たちはそこに複数の異なる〈感情〉が存在しているように見えるかも知れないが、実はそこには言語化される前の〈感情〉がひとかたまりに生じていると言えるのではないだろうか。
掲句は卒業歌を歌う生徒たちの黒々とした頭の列を「うつくしき」と表現しているが、もちろんそこには「うつくしき」以上の〈感情〉が存在していて、それはこの上五よりもむしろ「卒業歌」という季語のなかに経験的なものとして含まれているのかも知れない。
私たちが「良い句」を作りたい・読みたい、と言う場合に、それぞれの句が抱えている〈感情〉の総量がそこに書かれた句を通して、そのいくばくかを失いつつも、読み手にとってそれが「良い」ものとして印象づけられるのは、いったいどのような仕組みになっているのだろうか。そもそも、そのような〈感情〉の伝わり方を私たちはコントロールできるというのだろうか。
縁側の大気は重し猫の恋
先日、加藤楸邨の略歴を見ていると、大正十二年(1923年)十八歳のときに「西田幾多郎『善の研究』を耽読」とあった。(*1)
楸邨が俳句を始めるのはそれより八年後のことであるから、ここで彼が『善の研究』を耽読したというのは俳句のためではなく、もっと人間的な関心を根拠としているに違いない。
そしてこの『善の研究』には「善」について次のように書かれている。
善とは一言にていえば人格の実現である。(中略)我々は自己の心内において、知識では無限の心理として、感情では無限の美として、意志では無限の善として皆実在無限の意義を感ずることができるのである。我々が実在を知るというのは、自己の外の物を知るのではない、自己自身を知るのである。(中略)深く考えてみれば、世の中に絶対的真善美というものもなければ、絶対的偽醜悪というものもない。偽醜悪はいつも抽象的に物の一面を見て全豹を知らず、一方に偏して全体の統一に反する所に現われるのである。
(「善の研究」西田幾多郎著 講談社学術文庫)
ここで何か道徳めいたことを言うつもりはない。また、人生的な教訓を伝えようというのでもない。
そうではなくて、ことばで過不足なく表現することが不可能な〈感情〉が、ことばによってそれを限定されつつも、何かしら「良きもの」として読み手に伝わるというのは、俳句的あるいは言語的な技術論とはどうやら全く無関係である、ということである。
つまりことばの意味・内容や、俳句の構成、形式、リズム等によって合理的に俳句の良し悪しを制御することはできない、ということに他ならない。というよりもむしろ、そのような合理的戦略そのものが、そうした「良きもの」を生み出す素地を失わせる、というシニカルな構造をもっている。
楸邨が『善の研究』を耽読したのは、楸邨自身を起点として発生したとどめようのない動機によるもので、作品を良くしようとか、評価を得ようとか、そういう興味とは全く性質の違う、もっと倫理的なものであったに違いない。
そして、句が抱えている〈感情〉というのは、それそのものは技術的に生み出すことはできても、それが読み手にどのように響くかについては、そのような倫理的な努力によって運命的に支えられている、としか言いようがないのである。
「俳句表現の道」という文章で楸邨は次のように述べている。
われわれは、たった一度しか生まれないということ、他の誰でもない、かけがえのない我という唯一の存在であること、その日々の胸をかすめ去る感動はただの一度きりで、もう二度とくりかえされないということ、こういうことを考えたなら、このたった一度きりの、二度と生まれてくることのない自分の、かけがえのない感動を、いい加減に扱ったり、とりにがしたりしてしまっては、惜しんでもあまりあることだといえましょう。(中略)それをとらえることによって、ささやかな五、七、五の中に、自分というものが永遠に生きることを思うと、自分の感動をどこまで尊重しても、きりがないくらい大切だということが感じられます。そこで、その感動がうわべのものでなく、本当のものであるように、充分心したいと思うのです。
(「俳句表現の道」加藤楸邨全集第五巻 講談社)
十八歳で『善の研究』を耽読した若き楸邨が求めたものの一部は、その後、俳句を通して読み手に与えられたに違いない。見落としてはならないのは、そのような楸邨が求めたものを、私たちもまた異なる時代環境のなかで個人個人がそれぞれのかたちで求めているということだ。
このような話が、大げさに聞こえなくなる時代が残念ながら近いうちにやってくるかも知れない。しかし、そのとき自分自身と真摯に向き合い、自分自身を知る努力だけがおそらく俳句が抱えている〈感情〉の方向性を定め、読み手につよく届くことになるのではないか、と思われるのだ。
かように俳句と作者と読み手とをつなぐものが定かではない構造のなかで、そこにひらかれてゆくものは一体何なのだろうか。俳句における「良きもの」を支える合理的な手段が見えない中で、私たちは「何のために」「誰のために」という問いを発することはできるのだろうか。
〈第九章〉へつづく
(*1)「加藤楸邨全句集」寒雷俳句会編
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