反復を読む
電話を取り上げてあなたに創造的な「もしもし」を言った。その二番目の「もし」のこと
柳本々々
反復は、発見されなくてはならない新しいカテゴリーである。
(キルケゴール、前田敬作訳「反復」『キルケゴール著作集5』白水社、1995年、p.234)
対話的関係は対立する差異ある言葉(異論、反駁、拒絶)よりも、むしろ同じ言葉の反復(賛成、同意、承認)に際して純粋にあらわれると言ってもいい。だから、バフチンは「いい天気だ」と「いい天気だ」(あるいは「人生は素晴らしい」と「人生は素晴らしい」)という何の変哲もない、単純にしてしかも同一の言葉の繰り返し(同意)において対話を考えようとするのである。
(山城むつみ「ラズノグラーシエー─二葉亭四迷とバフチン」『ドストエフスキー』講談社、2010年、p.33)
薄氷を割る薄氷の中の日も 山田露結
(『新撰俳句叢書② ホームスウィートホーム』邑書林、2012年)
この句が収められている露結さんの句集タイトル『ホームスウィートホーム』にもそれはあらわれているんですが、この露結さんの句集の特徴のひとつに、〈反復〉があります。句集タイトルにも「ホーム」と「ホーム」の反復がありますが、掲句にも、「薄氷」と「薄氷」の反復があります。これはすでにたびたび指摘もされていることです。
〈反復〉とは、なにか。
たとえば英文学者の阿部公彦さんがこんなふうにいっています。
反復は残すだけが目的ではないということだ。残したうえで、つくり変えてしまうことができる。さらには洗い清め、すがすがしいものとして新たに生み出すこともできる。反復を通して言葉は浄化され、まったく別の意味をもったものとして生まれ変わることだってある
(阿部公彦「繰り返す」『文学を〈凝視〉する』岩波書店、2012年、p.17)
ここで述べられているように、〈反復〉とは実は文字通り〈反復〉ではないのです。〈反復〉とは同じ言葉の〈単なる繰り返し〉なんかではなくて、むしろ同じことばを繰り返すことによってその繰り返されたことばを逸脱させていく行為、それが〈反復〉です。
露結さんの句に戻ってみます。
薄氷を割る薄氷の中の日も 山田露結
ひとつめの「薄氷」と、ふたつめの「薄氷」は同じ意味性をもった「薄氷」ではありません。ひとつめの「薄氷」は「薄氷」ですが、ふたつめの「薄氷」は、(いま割られようとしている/割られた「薄氷」でありながら語り手がその「薄氷」の中に「日」を見出していた、その「薄氷」の中に「日」が映り込んでいる)「薄氷」だからです。
割られていくのはどちらも〈おなじ薄氷〉なんですが、語り手が認識している〈おなじ薄氷〉にズレが生じ、そのズレによって〈おなじ薄氷〉がひとつめの「薄氷」とふたつめの「薄氷」に別れています。
ここで語られているのは、たとえマテリアルに〈おなじ薄氷〉であったとしても認識のズラしによって無限の微分化されたn枚の薄氷が出現するという事態です。マテリアルな薄氷は、マトリックス=母型としての薄氷に過ぎず、たとえ割ってしまおうが語り手が認識を微分化していけばいくほど薄氷は無限にあらわれるわけです。
そういった「薄氷」の加算される認識のリフレインとしての〈厚み〉がこの句のダイナミクスになっているのではないかと思います。これはただたんに反復というよりは、キルケゴールが述べていたような、反復によってみずから新たな意味のカテゴリーを見出していく〈反復的創造=創造的反復〉に近いものなのではないかと思います。この句自体が、新しいカテゴリーとして提出している〈反復〉です。
ところでこうした氷と反復をめぐる句でぜひ思い出してみたい句がもうひとつあります。榮猿丸さんの句です。
グレープフルーツジュース氷もグレープフルーツジュース 榮猿丸
(『澤俳句叢書第十五篇 句集 点滅』ふらんす堂、2013年)
露結さんの句が意味上/言語上/認識上のリフレインをめぐっていたのに対し、猿丸さんの句ではマテリアルな〈場所=配置〉としてリフレインが行われます。マテリアルからのマトリックスです。
まず「グレープフルーツジュース」があります。そしてその「グレープフルーツジュース」の中に「グレープフルーツジュースの氷」があるわけです。ですから、正確にいうと「グレープフルーツジュースの氷」は、「(グレープフルーツジュースの中にある)グレープフルーツジュースの氷」になります。
たださきほどマテリアルな配置が大事だといいましたが、「氷」は溶けるわけです。そして「氷」はジュースの内部にあります。ですから、この「氷」は「氷」としてグレープフルーツジュースの内部にありながらも、グレープフルーツジュースの氷ですから、いままさにグレープフルーツジュースとなっていってもいるわけです。ですからこんがらがらないように落ち着いて言述してみるのだとすれば、この猿丸さんの句には次のようなグレープフルーツジュースの円環がみられます。
グレープフルーツジュースの中にグレープフルーツジュースの氷が入っているのだが、その(グレープフルーツジュースの中のグレープフルーツジュースの)氷はいままさに(グレープフルーツジュースとなってグレープフルーツジュースの中へと)溶けだし(グレープフルーツジュースとなりつつあり)、(そのグレープフルーツジュースの中にあったグレープフルーツジュースの氷から溶け出されたグレープフルーツジュースが今)グレープフルーツジュースの中で(かつてのグレープフルーツジュースとまざりあい、グレープフルーツジュースの中のグレープフルーツジュースの氷を取り巻きつつも)グレープフルーツジュースとなっているのだと。
すなわち、括弧の部分を取り払ってかんたんにいえば、こうなります。
グレープフルーツジュースの中にグレープフルーツジュースの氷が入っているのだが、その氷はいままさに溶けだし、グレープフルーツジュースの中でグレープフルーツジュースとなっている、と。
あまりに複雑すぎて飲むことに挫折しそうですが、でも、配置がマテリアルにリフレインしあっているというのはこういうことではないかとも、おもうのです。
阿部公彦さんが先ほどのリフレインの解説のときに、茨木のり子さんの詩をあげながら、こんなことを述べていました。
茨木のり子の反復は、いちいち逸脱しているということである。いちいちその呪いを完遂せず、つまりいちいち失敗を繰り返している。記憶し、後悔し、呪い、恨むはずが、どうしてもその通りにはならない。その通りにならないことをこそ、詩にしているのだ。
(阿部公彦『文学を〈凝視する〉』岩波書店、2012年、p.22)
「その通りにはならないこと」に〈詩〉があるかもしれないということ。
露結さんの句でも、猿丸さんの句でも、一見穏やかに同じことを繰り返しているように見えますが、しかしそれは〈同じこと〉の繰り返しにはならない。〈同一化〉しようとする円環がたびたび繰り返され、創造的にひろがっていくけれども、でも〈同じこと〉なんてどこにもないのです。〈同じであること〉と〈同一化〉とは、別の働きであること。
気をつけよう。私たちは、反復の種類を見分けなければならない。同じひとつの出来事が反復される。しかし、その陰で、別な反復が、ときとして生じることがある。それは同一化をはらむ反復である(同じであることと同一化は真っ向から対立する)。
(田崎英明「理論的、マゾヒズム」『思考のフロンティア ジェンダー/セクシュアリティ』岩波書店、2000年、p.2-3)
〈同じこと〉をめぐる繰り返しには、〈同じこと・でないこと〉が生み出されていくプロセスがある。だから〈反復〉は基本的にいつも〈複数形〉であるのだし、その〈複数形〉にこそ、山田露結と榮猿丸の氷とリフレインをめぐる句の〈詩的機能〉があるのではないかと思うのです。
おもうのです。
詩の繰り返しは、本質的に複数形である。一回一回で意味が完結するのではなく、繰り返される中でこそ意味を持つ。ひとつひとつの繰り返しにはいちいち個別の意味はなく、反復が続く過程でニュアンスや意味のこごりのようなものが蓄積されていく。詩を読むとは、そういう風にして言葉を一度限りのものとしてではなく読むような作業を要請される行為なのだ。
(阿部公彦『文学を〈凝視する〉』岩波書店、2012年、p.22)
1 comments:
技法としては
ちるさくら海あをければ海へちる 高屋窓秋
の頃からわりと使い古されたものですね。韻律も作りやすいですし、微妙な差異を取り上げる俳句独特の手も使いやすい。
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