成分表65
よろこび
上田信治
「里」2011年11月号より改稿転載
驚いたことに、さいきん耳が聴こえなくなった。
左はぎりぎり日常不自由ないが、右はそちらの耳で電話に出ても聴き取れず、あわてて電話を反対側に当てなおすぐらいに悪い。
はじめのうち、左右どちらが聴こえない耳かを、妻がなかなか憶えてくれない。文句を言ったら、聴こえるほうにピアスをつけてくれ、と言われたのには笑った。
人と話すときは、相手の右側に立って、聞こえる耳を相手に向けるようにする(
妻はもう慣れて、自然と自分の左側に回ってくれる)。
このあいだ初対面の人と、駅から目的地まで歩くという場面があったのだけれど、なぜか二人の立ち位置が決まらず、ぎこちないダンスのように、くるりくるりと回ってしまう。後で知ったのだが、相手の人も自分と同じ右側の耳が聞こえない人なのだった。
イヤホンを片耳だけしていると、たとえば松任谷由実の声が、その声に聴こえない。あれっと思って両耳にイヤホンを入れると、ユーミンの声になる。右耳と左耳で聴こえなくなった音域が違うから、そういうことが起こる。
音楽は全般ぼわぼわした音に聴こえ、人生の楽しみがすこし失われた気もするが、そのくらいはまあ仕方ないだろう。
そこで思ったのは、音楽が好きすぎてそれを職業にしてしまうような人は、そこからどれだけ多くの音を聴き取り、どれだけ多くの楽しみを得ているのだろう、ということだ。
ある能力が減ることで楽しみが失われるならば、はじめからその能力を多く持つ人は、より多くの楽しみを得ているという道理である。
おそらく同じ音楽でも聴こえているものが全く違うのだろう。人が音楽を享受する能力というものには、セントバーナードとチワワが違うくらい、ごく単純な量的な違いがあるのではないか。音楽が分かる人たちは、気の毒がって、私たちにそれを言わないわけだけれど。
それはきっと、全ての楽しみや歓びについて言えることだ。
たとえばセックスにおいて才能豊かな人が、どれだけの歓びをそこから得るのか。自然の中にいることを歓びとする人が、森にいるとき胸の内がどういうふうにざわつくのか。
それは、たぶん、その人たちにしか分からない。
世界は歓びに満ちていて、しかし、自分という受容器は、そのほとんどを受けとることができない。
芸術は、天才たちが世界からどれだけの情報と歓びを与えられているかを、垣間見る楽しみだとも言える。彼らは、世界に隠されていた歓びを受け取り、露わにしてそのいくらかを人々にくだしおき、それはごくゆっくりと人々の共有物となる。
文学もまた、言葉や世界からあまりにも多くの歓びを得てしまう天才たちの遊び場であるのだろうけれど、俳句や短歌には、世界を発見し享受するという天才たちに許された営為を、ふつうの言葉好きの人々が楽しむという「持ち寄りパーティー」のような性格がありますね。
自分は、さいきん、欠伸をこらえるとき顔の皮膚が後ろにひっぱられる感じについて考えていたので、世界のそのあたりを受け持つ受容器になろうかと思う。
われひとをよろこび春の雪を見る 下村槐太
歩く鳥世界にはよろこびがある 佐藤文香
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1 comments:
「欠伸をこらえるとき顔の皮膚が後ろにひっぱられる感じの世界のそのあたりを受け持つ受容器」の特許ぜひご取得ください。秋には美顔器コーナーで。
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