【俳誌を読む】
〈ゆるづかみ〉の展開力
『オルガン』創刊号を読む(4)
小津夜景
『オルガン』を読む、最終回は宮本佳世乃。今回彼女は「クリア」という自由詠と「うらうら」というテーマ詠をこの雑誌に寄せています。
「クリア」はとにかく心地の良い作品。読みながら気を抜くと、あっと言う間に眠ってしまえそうなほど快適です。あと景の組み立てに絵コンテ的なところがあって、読者の(ありもしない)記憶の急所をピンポイントで突いてきます。
かすみたる町に小さなヘルメット
風船に入る空気のちとぎくしやく
大学に食堂のある日永かな
録音のやうな初音のなかにゐる
絶妙なまでの何気なさ。すっきりとしたシチュエーション。ふわっとしたゆとりがありつつも夢想的な部分がなく、出来事を日常のスケールにきちんと収めてゆく手法。今回に限らず宮本佳世乃の句には「あの、確かにあった時間」におけるささやかな場面が割と多いようですが、面白いのはこうしたささやかさをめぐる細やかな調整とその巧みな構築というのが、逆説的に景の演出色を強化することになるらしく、結果としての句がていねいに作り込まれたドラマ(CM?映画?)のワン・ショットっぽく見えること。最初にわたしが「絵コンテ的」と感じたのは、このような句の佇まいを指しています。
ところで「何気ない風でいて、思いきりキャッチーな景」は彼女の句集『鳥飛ぶ仕組み』にもたくさん出てきます。とりわけ引用される頻度の高い句にこの手のものが集中しているようす。
あはゆきのほどける音やNHK
若葉風らららバランス飲料水
万緑やご飯のあとのまたご飯
弁当の本質は肉運動会
ともだちの流れてこないプールかな
夏の墓何もしないで帰つてくる
はつ雪や紙をさはつたまま眠る
こうして並べてみると、相当ショット・リスト的。次のシーンが柔軟に展開できそうな仕立て。さりげないふりをして、ある種のインフォメーションとディレクションとを積極的に投げかけてくる。ゆるくみせて、つかんでいる。この〈ゆるづかみ〉の技による展開力、無為の状況設定の背後にひそむ世界のダイナミズムは、宮本の句が垢抜けてみえることのかなり大きな要因になっている、と感じます。
更に言うと、この作者は「なにげない日常」だけでなく「なさけない状況」といったものも大変キャッチーに仕上げてしまう人ですが、このなさけなさに漂うユーモアの質というのがまた情報縮約的でインテリジェンスなもの。こっち系の句に関して、丁度よい例句とコメントがあるのでそれを丸々引用すると、
台風が塩ラーメンとなりにけり 宮本佳世乃
俳句的断定は、100人中99人には見向きもされぬことが大事。数をたのんではいけない。こんな断定、誰が首肯するか。首肯を求める物欲しげな句は、所詮卑しい。この句は輝くばかりに神々しい。「塩ラーメン」の情けなさはどうだ? ほとんど天国的に、情けない。
フォークダンス宇宙だんだん近づきぬ 宮本佳世乃
クスリもケムリもなしに宇宙が近づくことは、たまにあるだろう。トランスを促す音楽も種々存在するが、それは例えば「サイケデリック」と直截的に呼ばれる音楽。それなりにスペイシー(笑)であったりもするが、「フォークダンス」の情けなさは、またもやほとんど天国的。フォークダンスのさなか、近づく宇宙とは、どうだ? フォークダンス以上に情けない。ここまで情けない「宇宙」を味わったのは初めてだ。さらに言えば、史上最も情けない宇宙かもしれない。大好き句。〔*1〕
と、まあこんな感じ。こんな風に「なにげなさ」と「なさけなさ」といった一見対極に位置するシチュエーションを得意としていることはなんとなくわかる。だって〈ゆるづかみ〉の発想術から見た場合、このふたつのシチュエーションはイメージ化がしやすいパターンの代表でしょうから(わたしは上の句を読んだ時、深い脈絡はないものの、勢いがあった時代の「広告批評」の雰囲気なんかがぱっと思い出されたりしました)。
以上、宮本佳世乃の句について大雑把に語りつつ、次なる作品「うらうら」に入ると、これは芭蕉をテーマとした四人の作者(生駒・田島・鴇田・宮本)の競詠らしいんですね。ところが宮本はこれを、芭蕉をめぐる規定演技とはまるで思えぬまさかのフリースタイルで書いています。まず芭蕉の句を下敷きにしていない。連作最後の句が「芭蕉かな」の座五でシメられている、というだけ。しかもこの「芭蕉かな」の入り方が、もうなんというか、宮本プロデュースのシリーズものに芭蕉がちらっとカメオ出演しましたって感じの気安さ。さらに「うらうら」を「クリア」とを並べたときの合わせ鏡具合は「え。噓でしょ?」と言いたくなるほど。
大学に食堂のある日永かな (クリア)
校庭に門のありけり朧月 (うらうら)
木蓮のいちまい隠れはじめたる (クリア)
木蓮の太くめくれてをりにけり (うらうら)
浮橋を渡れば春のなじみをり (クリア)
夢の橋いま越えてゆく芭蕉かな (うらうら)
これ、当然わざとやっているんだと思うんですよ。で、これを見てわたしが思ったのは「クリア」と「うらうら」は同シリーズの別ヴァージョンなのかな、ということです(コマーシャルみたいな感じ?)。少なくともこういった発想は、連作へのアプローチの方法として珍しく、見方によっては出ほうだいです。思い返せば『鳥飛ぶ仕組み』が出版された際の書評には「すなおさ、やさしさ、さみしさ、ほのかさ」などといった、宮本佳世乃の感性の柔らかい部分に焦点をあてたものが多かった(もちろんそれは誤りではない)訳ですが、今回の『オルガン』を契機として宮本の作品をざっと見返すと、彼女の句の志向をある種の「イノセンス」とみなしそれを大枠で強調することは、とりもなおさずこの作者の〈ゆるづかみ〉の野性的直観とか、なにげなさ&キャッチーな絵コンテを練る際の読みの深さとか、方法に対する大胆さ(個人的には、ほとんどちゃらんぽらんな、と主張したい)といった重要な部分を語り落とすことになるのではないか、と思えてなりません。宮本佳世乃の句は、ほんとうに心地いい。いいですよ。但しその心地よさを「ピュアな感性」と直リンクさせる言説は、差し控えたい。決してイノセントではなく、くつろぎの私空間を創出するために、相当積極的につくって(また時に抛って)ゆく人のはず宮本佳世乃という俳人は。
註
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