〔ハイクふぃくしょん〕
べとべとの夜
中嶋憲武
『炎環』2013年11月号より転載
自動販売機をしたたか蹴っ飛ばしたので、右足が痛い。昨夜遅くカルピスを買おうとコインを入れたが、ガコンと音がしただけで商品が出て来ない。二三回蹴ってみたが、通行人はじろじろ見るし、足は痛くなって来るはで、初めっからカルピスなんて飲みたくなかったんだ。あんな甘ったるい飲料なんて要らないやと、アパートへ向けて歩き出したら微妙に右膝の辺りが痛くて、ベッドに入っても痛くて湿布してみたが、まだ痛い。罰が当たったのよ。妙子はそう言った。斜めから見ると一見クールビューティ、正面から見ると目が離れて吊り上がっているただの蛙。俺の上司。だが女は顔ではない。足首だ。妙子の足首はきゅっと締まっている。
社会人になって、初めてデートに誘った女は、引目鉤鼻のぽってりとした女で「わたしってぇ、アイミティーとかぁ好きなヒトだからぁ」などとのたまい、ウザかったが足首が見事に締まっていたので、その日のうちにヤッてしまってすぐに別れた。
罰が当たったのか。罰なら当たり続けている気がする。学校を卒業して此の方、いい事なんてひとつもない。むしろ悪い方へ悪い方へ向かっているようだ。仕事はない。業績は伸びない。妙子には叱られ続けている。父が亡くなって、母は物忘れがひどくなった。最近じゃあ、半分痴呆のような案配だ。このまま進行してゆくとすると、仕事をどうするかな。人を雇うのも施設に入れるのも考えものだし。妙子に事情を話してみるか。眠れない。母は今、隣りの三畳で白河夜船だ。話してみても、日頃の素行が素行だし、妙子とうまく相談できるかどうか。今日は書類の記入ミスで取引がご破算寸前になるところで、妙子にこっぴどく叱られた。四十目前の男が三十五の女に叱られるか、普通。叱られる。それが俺だから。ははは。笑い事じゃない。あなた、どういう生活態度なの。妙子は言った。はあ、すみません課長。返事は、はいっでしょ。それに答えになってないし。申し訳ありません。私の不注意でした。僕は妙子にひたすら平身低頭した。生活の乱れが仕事に出るんです。妙子はそう言うと、踵を返してすたすた歩いて行ってしまった。
眠れないので、外をぶらぶらした。梅雨の最中の生暖かい風に、昼間汗をかいた背中から脇腹にかけてべとべとして不快になった。僕はやっぱり人間が仁田山なのだ。この性根は、こんな年になってしまって最早どうする事も出来ないので、具合の悪い母を抱えて周りと折合をつけながら生きてゆくより他にしょうがない。でも出来るだろうか。
誘蛾灯のような自動販売機で、カルピスを買って空を仰いだ。天頂の辺りに明るく大きな星が瞬いている。織姫様だ。小さな頃は星が好きで、大人になったら天文学者になるなどと言っては母を苦笑させた。星を見てると人間はつくづく一人だと思う。俺、地球にひとりぼっち。太陽系にひとりぼっち。銀河系にひとりぼっち。わああっ。
水無月の大きな星よ明日は晴れ 長谷川智弥子
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