【八田木枯の一句】
櫻桃忌袖にされたるかの人よ
角谷昌子
櫻桃忌袖にされたるかの人よ 八田木枯
第五句集『夜さり』(2004年)より。
先月(2015年5月)、北上市の第三十回詩歌文学館賞贈賞式に参加し、又吉直樹氏の講演を聴いた。先ごろ発表した『火花』が話題の又吉氏が太宰治に傾倒していることはよく知られている。太宰の言葉に強い共感を覚え、全作を読破したとの言葉には特に驚きはしなかった。だが太宰の文中にある画家ベックリン(象徴主義・世紀末芸術の代表的画家)の「人魚と化け物」の絵画を求め、時間をかけて全画集を海外から取り寄せ、検証したとの発言には驚かされた。ようやく発見した絵画が壇上の巨大スクリーン一杯に映写され、我々も左に美女、右に化け物(笛を吹く牧神、パン)の構図の画像を見ることができた。苦労の末、とうとう目当ての絵画をつきとめた又吉氏の研究熱心さと執着の深さには瞠目させられた。
その太宰ゆかりの地である三鷹市下連雀に我が家はある。太宰は昭和23年6月13日に、玉川上水で山崎富栄と入水自殺をした。その入水地は徒歩ですぐのところにあり、草木が鬱蒼と繁っている。桜桃忌は増水した上水から遺体が発見された19日に太宰の墓のある禅林寺で催される。例年のように参列しているが、墓前に集まる人々の中には又吉氏のような若者も多い。吸いかけの煙草やカップ酒を親しげな手つきで供えたりしている。時代を経ても、太宰はさまざまな年代の人々の心をとらえているのだ。
太宰の女性遍歴はよく知られている。太宰に関わりのあった女性たちの名前を挙げると、田部シメ子、小山初代、太田静子、石原美知子、山崎富栄たちが著名だが、いかにもモテそうな太宰のほうから拒絶した女性たちも少なからずあったに違いない。掲句〈櫻桃忌袖にされたるかの人よ〉は、太宰に言い寄っても、受け入れられなかった〈かの人〉を慮った句だろう。いや、それではあまりにも単純かもしれない。もしかしたら、逆に女性に〈袖にされた〉太宰の経歴を木枯は思ってみたとしたらどうだろう。〈かの人よ〉ととぼけてみせ、フラれてしまった太宰の寂しさを描いてみせた。さらに考えてみると、木枯は太宰の女性遍歴にかこつけて、太宰の負った虚無的な人生の哀しみそのものを諧謔的に捉えたのではないか。太宰は聖書を読み込んで、魂の救済を求めたが、生涯かなわなかった。人生そのものに〈袖にされた〉のだと、木枯が思った可能性もある。
太宰はタナトスに支配され、いつも耳元で「死」と「虚無」が囁き続けていた。大戦中、タナトスが礼賛されたが、価値観が転覆した戦後の復興の中で、人々は虚無感を克服しようとエロスに眼を向けた。エロスの肥大した現代はタナトスを見過ごしにしていよう。それでも絶筆『グッド・バイ』を遺し、自殺で人生を締めくくった太宰を虚無の聖者として惹かれ続けている人たちがいる。
木枯が太宰の忌日を詠んだのは、掲句が最初で、生涯最後の句集『鏡騒』には、傘と傘殺ッとふれ合ふ櫻桃忌〉〈太宰忌といふは人間失格忌〉〈櫻桃忌指を細めて洗ひけり〉が、『鏡騒』以降には〈傘ささずしやがみこみたる櫻桃忌〉がある。木枯の生前に太宰はじめ作家たちへの考えをよくうかがっておけばよかったと残念に思う。
2015-06-07
【八田木枯の一句】櫻桃忌袖にされたるかの人よ 角谷昌子
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