【俳誌を読む】
ハロー・ワンダーあるいは道徳の原理
『オルガン』創刊号を読む(1)
小津夜景
この世にはいろんなタイプの俳人が存在し、おのおの自分の流儀で俳句をつくっている(たぶん)。が、そんな他所様の作品を読んでいると、たまに「自分の倫理に問いかけるために書く、といったタイプの書き手はこの業界においてずいぶん稀少なのではないか?」と思うことがある(一方その逆のパターン、すなわち「自分の倫理が問われていると思いつつ書く」良識ある書き手は、溢れ返っていそうな雰囲気)。それが良いとか悪いとかそういう話ではない。そうではなく、まあ、ただ思うだけなので深く追及しないでほしい。
と、のっけからこんなことを書くのは、先日『オルガン』という俳誌を手にして、田島健一の俳句をまとめて読む機会があったから。
歩きだすわたしの菫咲く倫理 田島健一
田島の俳句はいつも良い意味でシンプルだ。彼の作句の基本は、この世界を満たす「驚き」を捉えることにあり、またその作品には、彼の感じとっている世界と自己との関係が大抵わかりやすく畳み込まれている。たとえば上の句などは、
①前進(歩きだす)
②自己(わたし)
③矮小性(菫)
④開花(咲く)
といった、瑞々しくも啓蒙主義的な香りを帯びた四つの要素が「倫理」という結語で画定される、といった案配。とても明快、かつ清潔である。この「倫理」という語、おそらく他の多くの作家ならそのまま使うことをためらい、その概念を「別の何か」に置き換えて表象=再現しようと腐心するところだろうが、田島はそんなことは全く気にしない。また下の句、
記号うつくし空港の通路を蝶
では「記号」の担う美のイメージが、
①飛翔のためのトポス(空港)
②飛翔へのホドス(通路)
③飛翔するプシュケー(蝶)
といった平明な見立てによって、これまた丁寧に語り直されている(これ、とても良い句ですね)。
ホドスとはギリシア語で「道」のことで、はじめに示した句の「①前進」との間に概念的相似性をもつ。またプシュケーには「蝶」の他「魂・精神・生命」の意味もあるゆえ、人間のありさまにおいては「②自己」、蝶のはかなさにおいては「③矮小性」、その飛ぶすがたにおいては「④開花」といった具合に、やはりはじめの句とコンセプトの共有があるようだ。さらに「菫」及び「蝶」といった語の背景について述べれば、これがパスカルの葦(脆弱&有限なる存在/強靭&無限なる思惟、といった二重の価値)の代補であることは説明するまでもないだろうが、一応『パンセ』の文言を確認してみたい。
人間はひとくきの葦にすぎない。自然のなかで最も弱いものである。だが、それは考える葦である(…)なぜなら、彼は自分が死ねることと、宇宙の自分に対する優勢とを知っているからである。宇宙は何も知らない。(…)だから、われわれの尊厳のすべては、考えることのなかにある。われわれはそこから立ち上がらなければならないのであって、われわれが満たすことのできない空間や時間からではない。だから、よく考えることを努めよう。ここに道徳の原理がある。(パスカル『パンセ』、下線は筆者による)
大雑把に言って、田島にとっての言葉=記号とは「存在の有限性から思惟の無限性へと飛び立つための動力」であり、かつ「驚異する精神の境位」そのものである。実際、田島の句を読むと、言葉=記号に対する彼のこだわりがつねにこの位相において実践されていることや、またその実践がしばしばパスカル的な文脈における道徳の原理として彼に感受されているようすが随所に確認できる。おそらく彼が俗に言う写生その他の些末事を無視していられるのも、こうしたよりシリアスな審級に日々関わり合っている自負に由るのだろう。
そういえば、うまくいくこともあればいかないこともあるらしい田島の試みの中で、わたしの特にお気に入りの句に、
ただならぬ海月ぽ光追い抜くぽ
というのがある。これは、
①驚異性(ただならないこと)
②矮小性(くらげ)
③真理(ひかり)
④超越性(追い抜き)
といった、形而上学的色彩を誰の目にも疑いなく帯びた四つの要素を「ぽ」という一語によって作者が統制してみせた句だ。私にとってこの句のどこが面白いのかというと、それは「驚異する精神の境位」にかかわる上述の要素が、意味をもつ単語(「倫理」とか「美しい記号」とか)ではなしに「切れ字の一振り」によって完璧に止揚されている点と、またそのための「切れの刀」を彼が新たに考案した点である。
この句で田島が「ただならぬ海月や光追い抜くや」とは決して書かなかった理由はおそらくふたつ。
ひとつめは「海月」という果敢なく頼りなげな——まさに葦や菫や蝶などと同列の——生命体が、一切の翳りも限界も持たない強烈な「光」を抜き去るという史上最高のオーバーテイクを書くにあたり「や」の音は曖昧すぎる、ということ。絶対的真理=ロゴスのメタファーである「光」を、極小の、しかしながら白くもえさかる魂の炎にも似た「海月」が打ち破ってゆくワンダーとは、まさしく「世界」に対する「私」の凱歌として謳われるべき大事件だ。主体をめぐるこれほどの事件を演出するのに、どことなく日和見風で、もはや観念的・形骸的な詠嘆しか担っていない「や」をもってきたのではどうしたって話にならない。
そしてふたつめ(ここで大胆な博打に出ます)は、おそらく田島が、
待乳山ぴ人形焼のやぶにらみ 井口栞
の「ぴ」という切れ字を意識していたこと。井口の「ぴ」はものが切裂する音そのものに由来すると考えられる。一方田島は、この「ぴ」を参考にしつつもそこから一歩身を引き、より深い驚嘆の味わいを具えた音をさがしもとめたに違いない。
「ぴ」が亀裂音だとすれば「ぽ」は破裂音であり、詰まっていた何かがすっぽり抜ける音であり、事物の誕生する音であり、それ自体なにかの産声のような、恐ろしくけったいな音である。しかしながら、そのけったいさに漂うそこはかとない至福感は、この世界を満たす「驚き」が実現される瞬間のファンファーレとして存外似つかわしいものであり、また俳句というオルガンにとって時に不可欠な「厳粛な滑稽さ」を象徴する音としてもかなりうってつけの効果音といえるだろう。
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