自由律俳句を読む 102
「天坂寝覚」を読む〔2〕
畠 働猫
前回に引き続き、「天坂寝覚」句を鑑賞する。
最近まで天坂寝覚には句作の中断期間があった。前回と今回とで取り上げる句は、その中断前に詠まれたものだ。すべて過去句である。
私はとりあえずこれらの句群を〔寝覚Ⅰ期〕と呼ぶ。
再び詠まれ始めた近作は、これら過去句とは印象が異なる。
それらに関してはまたいずれ鑑賞の機会を持ちたい。
傘借りてまだ居る 天坂寝覚
また、雨の句である。
人物の関係性も情景も様々に読める。
「まだ居る」を肯定的に捉えるか否定的に捉えるかでも分かれよう。
私は前回の「雨を来て来ただけ」同様に、魂が分かちがたく結ばれた二人を読みたい。
傘を借りるのは帰り際だ。玄関先でしかし離れ難く立っている二人。
「まだ居る」には、ここにいるべきではない、すなわち「存在の違和」を読み取ることもできる。だが、ここでのそれはなんとも微笑ましいものだ。
借りた傘は返さなくてはならない。すなわち「傘」は再会の約束でもある。
うそつきになって会いに行く秋雨 同
「うそつきになって」がよい。
もう会わないという約束をしたのだろう。それを翻し、会いに行くのだ。
ここでの嘘は、主に自分に対するものだ。
「あの時の約束は嘘だったのだ」と自分に言い聞かせ、納得をしてから、冷たい雨の中へ飛び出して行ったのだ。
生真面目とも言える。あるいは自己欺瞞でもある。
しかし、衝動に従うべき瞬間はある。
うそつきになることも、冷たい雨も、その衝動の前には些細な障害に過ぎない。
火照った体にはいっそ秋雨が心地よかろう。
人生は何事をも為さぬには余りに長いが、何事かを為すには余りに短い。
会いたいときには、会うべきなのだ。
ひとりで来た顔をして墓へ 同
つまり「ひとり」ではないのだ。
読み手によって情景も様々に想像されよう。
亡くした伴侶の墓に、新しい家族を得た者が訪れたともとれる。
また、幼い子供が、親の墓にひとりで来れたことを誇っているともとれるだろう。
いずれにせよ、その墓に眠る者の前では「ひとり」であることを見せたいのだ。
残念ながら自分は伴侶を亡くす経験をしたことがないので、そうした読みは想像するしかないのだが、幼い子供としてなら同様の経験を持っているため、素直に読むことができる。
本当はまだひとりで墓に来ることができないほど幼いのだ。
しかし、墓で眠る死者にさえ気を遣い、遺された自分が強く立派に生きているということを見せて安心させたい。そんな健気さを読む。
大人にならざるを得なかった子供は哀しい。しかしその哀しさは他者への深い優しさに繋がっていくものだ。
後は土になる花があかい 同
椿であろうか。
散り落ちた花の刹那の美しさをよく描写している。
いずれは朽ちていく花がただただ赤くぽつねんと在る。
それを冷徹で無感動ともとれるような目で見つめている。その目が見つめるのは、滅びゆくものの美しさか、それとも大いなる循環の始まりか。
無常観を詠んだものとも言える。そう見ると、作者の句群のなかでは珍しいものだ。
しかしまた、私はここにある種の「あきらめの悪さ」も読む。
それは、美しさへの執着と言ってもいいかもしれない。
美しさを見過ごすことのできない表現者としての業。
それは、無常であることを受け入れる観念とは対立するものである。
無常の中で、それに抗うように一瞬の美しさに足を止めてしまう。
そこにこそ「存在の違和」が表れるのだろう。
誰も物言わず影から出てくる 同
前回取り上げた「私の影のどこからか蟻が出てくる」の景の続きとして読むことができよう。
退屈な「休み時間」が終わり、授業か作業に戻っていく。
そして蟻を眺めていた孤独は自分だけのものではなく、「誰も」が持て余していたものだという気づきがある。誰もが物言わぬ蟻と同じようにどこかから出てどこかへと去る。
我々はどこから来てどこへゆくのか。
人々が目を逸らしているのは、そうした存在への根源的な問いである。
問いは、自分自身が不確かで曖昧な存在であることを気づかせてしまう。そしてそれは、気づけば元通りには生きてゆけない不安となる。
作者の特性である「存在の違和」。だがそれは特殊なものではなく、全ての人間が無意識下に封じ込めているものなのだろう。
このように、読み手自身が自分自身を発見し、否も応もなく共感に至ってしまう句こそが自由律俳句における秀句と言えるだろう。
以上。次回の予定は、「又吉直樹」を読む〔1〕。
2015-07-19
自由律俳句を読む 102 「天坂寝覚」を読む〔2〕 畠働猫
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