名句に学び無し、
なんだこりゃこそ学びの宝庫 (9)
今井 聖
「街」103号より転載
雛まつり馬臭をりをり漂ひ来
波多野爽波 『骰子』(1986)
なんだこりゃ。
ヒナマツリバシュウヲリヲリタダヨイク
即物具象。前回の高野素十と同じく虚子の「客観写生」の信奉者で「花鳥諷詠」の情緒的な色合は薄い。
素十との違いは型への依存度がこちらの方が強い。型についてのオリジナリティが素十に比べると少ないと言ってもいい。
型というのは音律の「定型」という意味ではない。誰かが作った詠法の癖(文体)という意味である。誰かが作ったその文体に依存している。文体自体に新味を意図する気持は爽波さんにはまったくないのだ。
たとえば、爽波作品のこれら、
六月の藪の大きく割れゐたる
掛稲のすぐそこにある湯呑かな
風呂敷をはたけば四角葱坊主
帚木が帚木を押し傾けて
桐の木の向う桐の木昼寝村
ぽんぽんと手を打つようなこれらのリズム、同じフレーズの繰り返しなど、もの言いのパターンはすべてどこかで見たもの。他者によって確立された文体である。
他者というのは虚子始め多くはホトトギスの過去の俳人たちの誰かが、或はそれ以前から、最初はオリジナルとして用いた型を踏襲したものである。つまりこれらは他者の作った器なのだ。
季語、定型などを俳句の要件としたとしても、オリジナルの分野はまだまだ存在する。もちろんまずは内容のオリジナル。そしてリズムのオリジナルつまりは文体のオリジナル。爽波俳句に完全に欠けているのは後者である。
爽波は「多作多捨」を標榜し、習うより慣れよつまり考えるより先に言葉が出てくるような修錬を是とした。これが「俳句スポーツ説」。
そのことの効用、趣旨は解るが、短時間で多作を旨とするからリズム、文体については全て借り物。過去に作られた鋳型が絶対なのであり、鋳型自体を新しくという観点は全くない。
いちいちそこまで新味を意図していたら多作多捨は在り得ないのだ。過去の他者の文体を如何に多く知り身につけカードを切るように懐から出すことができるか。虚子ふう、風生ふう、茅舎ふう、しづの女ふう等々、その文体の中に如何に内容のオリジナルを盛るか。そういう勝負になる。
最近は百句出しの句会があるなどと折々耳にするし、また袋廻しなどのやり方で寸時に句を出す俊敏性が求められる試みもあるようだが、それらの場合のオリジナルの要件に過去の文体に対する抵抗はほとんど顧みられていないのではないか。
例えば、一句を「その」で始める文体。終りを「何々にかな」で止める「にかな」文体。こういうのを使う俳人をみると、私はそういう型を勉強して身につけて使っておりますというつまらない表白に思える。
「その人の」なんて始めるんじゃなくて、「あの」とか「この」とか、「ほう」とか「あきゃ」とかで工夫してみたらどうなんだろう。言葉は自由にひらかれているのだ。
「俳句スポーツ説」の欠陥は、文体への懐疑とオリジナリティが無いところにある。
例えば素十は違う。前回の
アマリリスまでフリージアの香りかな
は7・6・5のリズム。従来的にはポンポンと手拍子で纏めるべき切れ字「かな」で押える一句一章の句をこういうリズムで纏めるのは、素十の中に過去の文体を型として使う意識がなかったことを示している。
僕は無い物ねだりをしているのだろうか。そんなことはない。楸邨や誓子や草田男の文体のオリジナルはそれまでのどの俳人にも似ないものだ。もちろん全てがそうだとは言わないが。
くすぐつたいぞ円空仏に子猫の手 楸邨
遺壁の寒さ腕失せ首失せなほ天使 同
炎天の遠き帆やわがこころの帆 誓子
するすると岩をするすると地を蜥蜴 同
妻抱かな春昼の砂利踏みて帰る 草田男
赤ん坊の舌の強さや飛び飛ぶ雪 同
俳句に古格を求めた波郷だって、
蝶燕母も来給ふ死に得んや
雪はしづかにゆたかにはやし屍室
接吻もて映画は閉ぢぬ咳満ち満つ
こういう独特の文体は過去の文体そのものに対する抵抗感を抱いていないと生まれないだろう。百句出しや袋回しでこういうオリジナリティを意図できるか。
では爽波俳句から学ぶものはないのか。
ある。
それは冒頭の句のような、季語とそれ以外の発想との距離感。
季語「雛祭」は、雛を出す、納める、各雛の特徴、雛壇、その季節感の「らしさ」そういう「雛」という季語の本意が句の中心にあらねばならなかった。
そういう「本意」をなぞる内容であってこそ「この雛祭はこの句の中で動かない」と讃えられたのである。季語が動かないことを以てして秀句の条件であることが「常識」だったから。
僕は違うと思う。
馬臭がをりをり漂ってくるのは雛まつりならずとも。
この季語は動く。中七下五の叙述と離れたもので成功する季語は他に山ほどある。雛祭の時期について馬糞が乾く過程で臭い易い季節との照合を言うとしたらそれは後付けの強引な理屈。
爽波は「季語は一句の中で取り替えが効いてはいけない」という伝統派の常識を逆手にとって思い切り離れたイメージを接着して風景の幅や受け取るイメージを拡大させた。
俳句の描ける範囲を「写生」という技法に於いて一新させたのである。
季語は動いていいのだ。
一句にとって唯一絶対の季語とは恋愛と同じ。
口説き文句、「世界中探したけど貴女しかいない」
本当にアラスカからアフリカまで世界中探したのか。
貴女もすばらしいけど隣村の花ちゃんでもよかったとなぜ本当のことを言わない。
なんだこりゃこそ学びの宝庫。
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