自由律俳句を読む 105
「松尾あつゆき」を読む〔2〕
畠 働猫
前回に引き続き、「松尾あつゆき」句を鑑賞する。
70年前の今日、8月9日、長崎に原子爆弾が投下された。
午前11時2分。
現在の平和公園の約500メートル上空でそれは爆発した。
爆発と同時に発生した火球は、直径100~280メートルに広がり、その温度は摂氏30万度にも達したという。放射された熱線は地上を焼き尽くし、衝撃波と爆風は、物と人との区別なく吹き飛ばし、破壊した。
その爆風は半径40キロにも及んだと言う。
この災厄による死者は推定7万4千人。当時の長崎市の人口は約24万人であり、その3分の1にも及ぶ数である。
重軽傷者を含めると約15万人が被害を受け、即死を免れた者も、あつゆきのように多くの人が後遺症に苦しむこととなった。
<略歴>
松尾あつゆき(まつお あつゆき 1904~1983)
長崎県に生まれる。長崎高等商業(現長崎大学経済学部)卒業後、長崎市立長崎商業学校にて英語教諭となる。23歳で層雲に入門。荻原井泉水に師事。その後、長崎市立商業学校を退き、長崎大浦食料営団勤務。
1945年8月9日。
敦之(41歳)、妻 千代子(36歳)、長女 みち子(16歳)、長男 海人(12歳)、次男 宏人(4歳)、次女 由紀子(1歳)、長崎市にて原子爆弾被爆。
次男 宏人、次女 由紀子、被爆により死去。
翌8月10日、長男 海人死去。
8月13日、妻 千代子死去。
8月15日終戦。4枚の爆死証明書を受け取る。
その後長女とともに長野県へ移り、後遺症に苦しみながらも高校教諭として勤務しながら句作を続けた。
1983年79歳にて死去。
句集に『火を継ぐ』『原爆句抄』などがある。
とんぼうとまらせて三つのなきがらきょうだい 松尾あつゆき
とんぼう子たちばかりでとほくへゆく 同
とんぼう子をやく木をひろうてくる 同
日本の古称に秋津洲があるように、古来よりとんぼは縁起のよいもの、また、稲の害虫を食べることから豊穣の象徴として親しまれてきた虫である。
それが今、豊穣とは正反対の焼き尽くされた地を飛んでゆく。
子供を焼くために木切れを探し歩く中も、とんぼたちだけは自由に飛び回っていたのだろう。数え切れない死の中でそれでも生きて営みを続けるものがある。
死してなお仲のよい兄弟にとんぼがとまる。
「とほく」は天国であろうか。せめて兄弟をまっすぐに導いてほしいという思いを、力強く生きているとんぼに託すのだろう。託すことしかできないのだろう。
やさしく弟いもうとを右ひだり、火をまつ 同
ほのほ、兄をなかによりそうて火になる 同
3人の兄弟を一緒に焼く。兄はやさしく弟妹を守り、弟妹はそんな兄にぴったりとよりそって、ともに焼かれていく。
かぜ、子らに火をつけてたばこいっぽんもらうて 同
風が起こり、やっと火がついたのだろう。肉体も精神もひどく疲労していたに違いない。その場にへたり込み、茫然と座り込んでいる様を思う。
煙草をくれたのは、同じ境遇の者だったのだろう。ともに家族を亡くした者同士の無言のやりとりがあったことと思う。
あまのがは壕からみえるのが子をやくのこり火 同
このとき、どのような感情が残されているのだろうか。星を見ては「あ、星だ」。火を見ては「あ、火だ」。それ以上の思考などできないように思う。
心は鈍麻し、自ら熾し子を焼いた「火」を無感動に眺めている様子を思う。
この骨がひえるころのきえてゆく星 同
あさぎりきょうだいよりそうた形(なり)の骨で 同
あわれ七ヶ月のいのちの、はなびらのやうな骨かな 同
みたりの骨をひとつに、焼跡からひろうた壺 同
明け方になり、星が消えていく。朝霧の中で、火葬した骨を拾う。
一緒に焼いた兄弟は、そのままの形で骨になっていた。
「はなびらのやうな骨」という表現は哀しくもひどく美しい。骨になってなお愛おしい。見たままの直喩でありながら、幼くして亡くしてしまった子への愛情と憐憫が溢れている。
そして、骨になってなお仲のよい兄弟は、小さな小さな骨になってしまい、一つの壺に3人が収まってしまった。
まくらもと子をほねにしてあはれちちがはる 同
短夜あけてくるみたりの子を逝かしたふたり 同
乳飲み子を亡くし、骨にしてしまってなお、乳が張ってくる。
母の哀しみはいかほどのものだろうか。
短い夜が明ける。為す術もなく3人もの子を逝かせた夫婦にも朝が来てしまう。
ふところにしてトマト一つはヒロちゃんへ、こときれる 同
くりかえし米の配給のことをこれが遺言か 同
十八年の妻にそひねして此の一夜あけやすき 同
人はこんな優しさを持ち得るものか。
自らの死に際しても残していく家族、先に亡くしてしまった子供のことを思う。
「トマト」は水を求めながら得られずに逝った子へあげたかったのだろうか。
妻と今日までともに過ごした時間は、突然の災厄により「十八年」で途絶えてしまう。妻の亡骸に寄り添い、来し方行く末を思うのだろう。
夜は知らぬ間に白々と明けてゆく。
なつくさ妻をやく所さだめる 同
炎天妻に火をつけて水のむ 同
夏草身をおこしては妻をやく火を継ぐ 同
降伏のみことのり、妻をやく火いまぞ熾りつ 同
建物も木々もなぎ倒され、なにもかもが失われてしまった。
どこで焼いたってかまわない。それでもせめて少しでも良い場所を探し求めたのだろう。
自分は生きている。妻の分までも生きなくてはならない。決意でもなく義務でもない。ただ淡々と心を殺して、妻の亡骸に火をつけ水を飲んだのだろう。
絶望にうちひしがれながらも、火を絶やさぬよう、せめて妻をしっかりと焼けるように疲弊した身体に鞭打って火を継ぐのだ。
そして玉音が流れる。原爆の投下から6日が経過していた。
なにもかもなくした手に四まいの爆死証明 同
玉音あまくだるすべてをうしなひしものの上 同
手の中にあるわずかなものを示して、ほかには何もない空虚を表現する。技法としては新鮮ではない。しかし句材が強力過ぎる。このような空虚をほかのだれが表現できるだろうか。
「すべてをうしなひしもの」は自分のことばかりではない。それでは単なるヒロイズムの披露になってしまう。
同じように被爆した者。それだけでもないだろう。
おそらくは戦争で犠牲を支払った者、戦争に関わった者すべてを表している。
矛盾した言い方であるが、そこにあるのは恐ろしく巨大な虚無である。
「すべてをうしなひしもの」とは、希望も目的も失い、その巨大な虚無に飲み込まれた者のことなのだろう。
以上22句は、あつゆきの全句集である『花びらのような命』(竹村あつお 編 龍鳳書房)中から採った。
また、文中の原爆の記録・数値については、長崎市のHP「平和・原爆総合ページ(長崎原爆資料館) http://nagasakipeace.jp/japanese.html」を参考にした。
これらの句群は、その後何度かの推敲を経て、句集へと収録されることになる。
そのため、句集『原爆句抄』や長崎の句碑などで見る句とは多少の差異があることにお気づきの方もあるかと思う。
詩であれ句であれ、そこに自分の悲しみを表現するという行為に、自分はどうしようもない修羅を感じる。
この「修羅」とは、宮沢賢治が自らを表現したものと同じである。すなわち、仏教の六道において、人間よりも下位の存在であるということだ。
自らの感情を芸術に昇華しようとするとき、そこには当然技巧的な操作が加えられる。推敲などはその最たるものと言えよう。だからこそ受け手も感動することができる。
しかしその操作の段階で作者の悲しみは純粋な悲しみのままであろうか?
そこには自分の感情から一歩引いて見つめる冷徹な観察者が現れるのではないだろうか。
悲しみとはもっと個人的なものであって、それを他者に対して表現することなど、「まともな人間」にできるものだろうか。
それができるのは「修羅」だけではないのか。
そのように思う。
一応断言しておくが、これは非難ではない。純粋な表現者への賞賛である。
単に悲しみに寄り添って憐憫に暮れるのはまともな人間の行為でしかない。
表現者とは、修羅でなくてはならないのだ。
無論、自分もそうありたいと願っている。
そして前回、戦争を「現象」として捉え分析することが必要だと言ったように、人の心の悲しみを断ち切ることができるのは、冷徹な観察眼と智慧とを併せ持つ修羅だけなのではないか、とも私は思っている。
次回は、「又吉直樹」を読む〔2〕。
2015-08-09
自由律俳句を読む 105 「松尾あつゆき」を読む〔2〕 畠働猫
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