【週俳7月の俳句を読む】
見えるものに思えた渚
田中惣一郎
夜が明けてやがて朝になる。学校なら学校へ、仕事場なら仕事場へ、行く。そういうことを皆それぞれが、だいたい毎日やっている。どこへも行かない人もいる。一日が終わって、寝て起きて始まる次の日も、その前の日とほぼほぼ変わらないことをしたりする。その繰り返しが喜びそのものであるわけではきっとないのだけれど、日々の中には少し、喜びがある。それと同じように喜びとはまた別の、悲しさや、淋しさといったものも、喜びがありうるのと同じ有様で、ある。しかし、ある、ということはわかっても、それが一体何なのか自分では簡単にわからないこともある。そういった感情の深層の緩やかな部分に生駒大祐の句はすんなり入ってくる。
君持つ其れ流木或いは氷菓の匙 生駒大祐
君がいて、どうやら「私」がいる。大げさに言えば既にそこに隔たりがあるのだ。君は何かを持っているが、それが何なのか「私」にはわからない。おそらくは「私」たちは歩いてきて、そこは水辺に近く、君の持っているものは、何か木、といって連想されるものがその辺の道端で拾えそうな流木なのだろうか、あるいは先ほど食べた(のだろうか、などということはもはやどうでもいい。もとよりそれは私たちにはわからないことだ)アイスクリームの木のへらなのだろうか。それらが並べて置かれたならばどちらがどちらだなんてことは誰の目にもすぐ明らかにわかることだろう。だが、わからないのだ。なぜならば君が持っているから。君は「私」ではなくて、君が持っているものは「私」が持っているものではないから。「私」は、あれは何だろうと考える。ここで実感されるのは君と「私」との果てしない距離である。何か棒っ切れを持っていることは見えているのだから、物理的には近くにいるのだろう。見ればいい、見て確認すればいいのに。なのに考えてしまうのだ。それは君の心に近づこうという衝動である。その棒は何なのか、という問いは、「私」が意図的に立てた問いだ。おそらく現実の景として君が手にしているのは氷菓の匙なのだろう。そんなことは「私」も当然わかっていて、なお君と今ここで流木の幻を共有するために迂回するのである。このきっとほんの少しの思考の間の、まるで時間が止まったようなひと時のことはもう、幸福と呼んでもいいのではないだろうか。
なんだろう、わからない、と感じられることは他人やものや人に対しても日々数えきれないほどある。そういうひっかかりには日常何度も直面しているはずなのだ。けれどそれらは当然の、起こりうることとして予想され、ほとんど何も考えないままにやり過ごして解決させることだってできるし、実際そうしてやり過ごし、忘れてしまって過ぎて行くことだ。これら「夏の訃」はみなそこを掬った句である。
真白き箱折紙の蟬を入れる箱
ここには箱があり、箱は、ただの箱だ。何の変哲もない白い箱。そして折紙を折る人がいる。あるいはいた。折紙を折る人は蟬を折る。とにかく折る。蟬なんだから一匹だけではかわいそうだ。折紙を折る人はきっと、蟬をたくさん折るだろう。そこに箱がある。ただの白い箱。折られた紙の蟬もある。折紙を折る人はその箱に蟬を入れるだろう。なぜならそこに箱があったからだ。箱にはものを入れられる。蟬は自分が作り、今、生まれたのだ。だからそこに箱があったならば、入れてやるだろう。それは自然なことだ。箱はそうしてただの白い箱ではなくなり、一句に収まることによってその箱の特別は永遠のものとなる。
渚はるか渚むかし渚三つの影
あるのは渚と、時間や距離のそれぞれの遠さと、そして何か三つのものの影だけだ。ここで一番、かろうじて何かが見えそうだと思えるのは渚だろう。渚の風景を頭に思い浮かべたくなるが、それも遠さに阻まれて明確な像を結んでくれない。なにしろ見ればわかる通り「渚」という言葉は一句の中に三つも出てくる。当然下五の「三つの影」の「三つ」と響き合っているのではあるが、この「三つ」が「渚」を指していて、それは渚の影だ、という解釈に回収されるというわけにはいかない。だいたい渚というものは大きすぎるのだ。一つの影を置くものとしての渚は想像できても、渚そのものの影というのは想像し難い。むしろ何かの影だけがはっきりと見えていて、見えるものに思えた渚も、そのイメージの端のぶれのようなものを摑めるに留まっているような気がしてしまう。大きすぎるものというのは、ただ大きいというだけで異質に感じられる。それは間近に対面したときに、近くにいるにもかかわらずその全貌を視界に収めることができないということに依るのかもしれないが、それにしても渚に立てば、わけがわからないがとにかく大きなものが確かにあるということは見るからに認めざるを得ないのだ。この「渚」はそういった原体験的な渚を思わせる。ここにある一句はただ渚と三つのもののためのデクパージュであり、ただここに意味なくあるだけだが、こうしてここにある、ということに私は確かに喜びを感じている。
第429号2015年7月12日
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