【八田木枯の一句】
白桃や死よりも死後がおそろしき
角谷昌子
白桃や死よりも死後がおそろしき 八田木枯
第五句集『夜さり』(2004年)。
桃というとすぐに思い浮かべるのは西王母の逸話だろう。中国の仙境には蓬莱山と崑崙山があり、そこには不老不死の妙薬があると言われていた。崑崙山を司るのが西王母であり、道教では最高位の長寿の女神とされる。この女神の所有する桃こそ、不老長寿の霊力を持ち、魔除けの効力があると尊ばれていた。
みずみずしい白桃をじっと見つめていると、その産毛の輝きや内側から滲んでいる赤味がなんとも艶やかで妖しく感じられる。きっと誰もいない真夜中には、一つの生命体としてトクトクと脈打つに違いない。たっぷりとした水分が内部に充満し、薄皮一枚をいまにも破りそうに張りつめている。いかにも神仙の果実として珍重され、その生気にあやかろうと人が心を寄せそうな円熟ぶりだ。
木枯のこの句では、眼前に据えた白桃に魅入られながら、ふと唇からこぼれた生死への思いが主題となる。生命を全うし、いよいよ賜る〈死〉そのもの、呼吸が止まり、心臓も打つのをやめる、その瞬間よりも、肉体が滅びたあとの〈死後〉の長さを懼れるというのだ。木枯にとって死後は時空からの解放ではなく、果てしなく続く煉獄のようなものだったのか。魂魄は滅びることもなく無限の闇にさまよいつづけるのを案じたのだろうか。
木枯は実作から遠ざかっていた期間が長かったが、晩年は俳句一筋の日々であった。命ある限り俳句に向き合っており、最期の言葉は「白扇落ちた」だった。その白扇は木枯の魂そのものだったのではないか。くるくると舞いながら光と闇を攪拌し、肉体を離れたあとは、海坂を自由に出入りしているに違いない。
木枯には「桃」の句が多い。『天袋』には〈まよなかをゆきつもどりつ冷し桃〉〈死ぬまでは生きてゐし人ひやし桃〉がある。また、掲句の収められた『夜さり』には〈白桃や母なじるとき我薄れ〉〈冷し桃うらがへりたる捨身かな〉〈白桃は逢魔ヶ刻を羽撃きぬ〉〈冷し桃もの言ふことを封ぜられ〉〈冷し桃人を殺めしことはなし〉〈両手もて口塞がれし冷し桃〉〈正体の無くなるまでに桃冷えし〉〈桃ほどに腐まずに柿寂びにけり〉などたくさん見いだせる。いずれも桃の妖艶かつ生命力に溢れた特徴を捉え、そこから生死にかかわる思いへと発想を飛躍させている作品である。
最後の〈桃ほどに腐まずに柿寂びにけり〉には「傷む」ではなく、「腐む」が使われている。ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』の中で、ロシア正教のゾシマ長老が亡くなり、腐臭を放つ衝撃のシーンを思い出す。「いたむ」という言葉から「傷む」「痛む」「悼む」が浮かぶ。木枯はあえて「腐む」としたところに、「死」への感傷を振り払い、即物的に扱ったのだろう。そして「死後」の魂の救済について信じようとすれども、なお懐疑的だったと思うのは考え過ぎだろうか。
2015-08-02
【八田木枯の一句】白桃や死よりも死後がおそろしき 角谷昌子
登録:
コメントの投稿 (Atom)
0 comments:
コメントを投稿