2015-09-27

自由律俳句を読む 110 「中筋祖啓」を読む〔1〕 畠働猫

自由律俳句を読む 110
「中筋祖啓」を読む1

畠 働猫



はばたいたミサゴは必ず次へ行く  中筋祖啓
フタの裏にある静寂  同
一回両手で受け止めて、また捧げる  同
ぞんざいにして常に居る  同
息でえぐる  同


<略歴>
中筋祖啓(なかすじ そけい、1982-
随句(自由律俳句)誌『草原』同人、自由律俳句集団『鉄塊』所属を経て、現在はそれぞれ脱会。
自らシンガーソングライターも称し、俳句の枠に収まらない自由な活動を続けている。



今回から2週に分けて、中筋祖啓の句を鑑賞する。
氏の作品を知る者から見れば、今回の句群は氏を代表するものではない、と感じるかもしれない。
それらの句群は次回に鑑賞することとし、今回は初見でも佳句と感じられる句を選んだ。いわば祖啓初心者向けの句群である。



はばたいたミサゴは必ず次へ行く  中筋祖啓
中筋祖啓の句の中で、私がもっとも好んでいるのがこの句である。
ミサゴという鳥の雄々しさを実に前向きに詠んでいる。
実に格好のよい句と言える。
ミサゴは英訳するとOspreyであるため、作句当時の世相を風刺したものとも読めるが、祖啓句の場合、それは野暮な読みかもしれない。

フタの裏にある静寂  中筋祖啓
シュレディンガーの猫のパラドクスと同様の思考であろう。
後に詳述する「原始の眼」によって、おそらくは「フタ」というものを初めて見たかのように、その状態や作用について観察したのだ。
その結果、それによって覆われて見えないところに無限の可能性を見出し、しかもそれらがすべて重なり合って存在していると感じている。その可能性の密集と緊張状態をむしろ「静寂」と表現するところにこの句の恐ろしさ・非凡さがある。

一回両手で受け止めて、また捧げる  中筋祖啓
放哉の「入れ物が無い両手で受ける」への連れ句とも読める。
与えられたものへの感謝の気持ちが強く表れている。
托鉢で得られた報謝、あるいは滾々と湧き出る石清水など様々なものを想起することができる。
陽の光として読むのが最も美しいか。今日も昇る朝日に感謝し、それを両手で受け止め捧げる。原始の信仰のようでもあり、人間のあるべき姿を描いているようでもある。

ぞんざいにして常に居る  中筋祖啓
推敲句を見ると、どうも「居る」のはダンゴムシのようである。
そのダンゴムシを自ら排したことで句は普遍性と解釈の幅を得た。
読者は自らの経験の中でこのようにして「居る」存在を想起するであろうし、それによって様々な感情を喚起されることだろう。
我が家の猫などはまさにこのような存在であり、なんとも愛おしいものである。
呼び起こされる感情により評価が分かれそうな句ではあるが、私はそうした存在への愛おしさや優しい視線を読み取る。

息でえぐる  中筋祖啓
祖啓句には珍しい短律の句である。
そして実に鋭利な切り口である。
雪や氷を息で溶かしている様子だろうか。
それとも粉末状のものや粘性のある個体を吹いて形を変えているのだろうか。
雪だるまを作り、その頬を息で溶かせば、このような情景になるだろうか。
実景として考えるとそのようなものを考えることはできる。
しかし観念的な句として捉えた方が、解釈はもっと自由になれるだろう。
「息」とは生命の象徴であろう。
それによって「えぐる」あるいは、「えぐられる」ものはなんだろうか。
それは心ではないのか。
生者の息によって、死にゆくもの、死に近きものの心はえぐられる。
生きるということはときにそうした凶暴さを傲岸にさらけ出すものであるのだろう。



*     *     *



前回、「末期の眼」について触れた。
「末期の眼」とは、芥川龍之介の遺した「或旧友へ送る手記」に表れる語句である。以下に引用する。
「しかし僕のいつ敢然と自殺出来るかは疑問である。唯自然はかう云ふ僕にはいつもよりも一層美しい。君は自然の美しいのを愛し、しかも自殺しようとする僕の矛盾を笑ふであらう。けれども自然の美しいのは僕の末期の目に映るからである。僕は他人よりも見、愛し、且又理解した。それだけは苦しみを重ねた中にも多少僕には満足である。」
この手記から、「末期の眼」は死を覚悟した者の眼であると解釈されるのが一般的であろうかと思う。しかし自分はこれを、芥川が到達した写生の境地であると理解している。
その「美」を感応するのは、死に向かう眼であるからではない。
そこに存在する「美」そのものが末期のもの、二度とないものであるということに積極的に気づくことである。その「美」は一瞬後には失われるものであり、一瞬前には存在していなかったものである。一期一会という言葉の通り、その「美」を感応する機会は「いま・ここ」を措いては二度と訪れることがない。
つまり「末期の眼」とは積極的に「美」を見出す眼であり、自分自身の生死はそこに関係しない。
とは言え、死に近い者が「末期の眼」を持ち易いのは確かである。死期を悟った者にとっては一瞬の意味が変わるからだ。

これは私自身が理想とする態度であり、名句の背景に必ずあると考えてきた条件でもある。

しかし、今現在は、それは「私の好む流れ」に過ぎないものだと理解している。
(前回の記事で自由律俳句を「詠者・読者がそれぞれに好みの流れの川を持つもの」と喩えた。ここではそれを踏襲する。)
その理解に至らせたのが、中筋祖啓という人物の「原始の眼」との邂逅である。
「末期の眼」と「原始の眼」とは、異質のものでありながら、そのフィルターを通して表れるものがときに共通の流れを作り出すことがある。
今回挙げた5句は、そうした共通の流れを見せている句である。
だがそれが祖啓の真骨頂ではない。
やはり祖啓句の真価は、その「原始の眼」から紡がれるものにこそあると言える。
ただし、それらが一般的に名句として受け入れられるかどうかは、はなはだ疑わしい。
今回、受け入れられやすい5句を選んだのもそれを危惧したためである。

「原始の眼」とは、祖啓自身が「原始人になる」と語っていたのを引用し、私が考えた造語である。
曰く、原始人になってすべてを初めて見るように感じてみる。そうすると、たとえばこのテーブルの上にあるポットが気になってくる。これはなんだろう。すごいな。どうしてなのかな。そうして見ると様々なものが気になってくる。そして考える。考えるうちに句になる。言葉になってくる。
そんなことを本人から聞いた。

つまり「末期の眼」がすべてを最後の機会と捉えるのに対し、「原始の眼」とはすべてを初めての機会として捉えるということだ。
何度か試みたが、ついに私には持ち得ない視点であった。
おそらくこれを天才と言うのだろう。

そうした「原始の眼」に映る世界はどのような色彩を放つのか。
次回はそれがさらに垣間見える句群を紹介したいと思う。




次回は、「原始の眼」を持つ俳人「中筋祖啓」を読む〔2〕。

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