俳句の自然 子規への遡行47
橋本 直
初出『若竹』2015年1月号 (一部改変がある)
引き続き子規の鶏頭句を追う。子規の鶏頭の句の中で目立つ傾向をもつと思われるのが、〈高低・大小等の比較や並立〉と、〈本数の詠み込み〉である。
絲瓜肥え鶏頭痩せぬ背戸の雨 二七
大木に竝んで高し鷄頭花 二七
二三本鷄頭咲けり墓の間 二七
鷄頭の丈を揃へたる土塀哉 二八
鷄頭の一本殘る畠かな 二八
芋引かれ豆ひかれ鷄頭二三本 二九
鷄頭高くのび澁柿低く垂る 二九
鷄頭も松も植ゑたる小庭哉 二九
筑波暮れて夕日の鷄頭五六本 二九
芭蕉青く鷄頭赤き野寺かな 二九
鷄頭の十本ばかり百姓家 三二
鷄頭の十四五本もありぬべし 三三
鷄頭ヤ絲瓜ヤ庵ハ貧ナラズ 三四
まず、比較について。いわゆる取り合わせの詠み方であるが、あるときは他の草木、またあるときは草木ではないものと対比されている。いわば、同じ草類の中で育成の時間差や質の違いがあらわれた作品と、大木、柿、松、芭蕉など、大きな植物との取り合わせによる景の時空間の広がりと、その伸びる方向などの関係性を詠まれたものにわかれる。
前々回引いた「俳句分類」に集められた近世の句群の中でこれらの詠まれ方に近い作品には、⑧の「鶏頭や牛の背を越す影法師」(洞天)があるが、こちらは影をいささか大げさに詠んでいる点で、機知、すなわち理屈っぽい句になっている。一方、子規の句は、病の進行によって歩行困難に陥った明治二十九年秋の句「芋引かれ豆ひかれ鷄頭二三本」に顕著なように、眼前の風景にせよ過去の経験に基づくにせよ、定点観測をする研究者のように、ずっとそこを眺め続けている子規の視線が感じられ、そこで看取したそれぞれの植物の個性の差を取り合わせることで生まれる趣の差が詠まれ、前時代のものとはかなり異なる作風になっているように思う。
次に、本数の詠み込みについて。子規は鶏頭の本数を詠み込んだ句を六句残していて、かつ、単なる偶然か子規の嗜好による為か、年と共に本数が増える傾向にある。その中で、最も注目されるのはやはり「鷄頭の十四五本もありぬべし」だろう。後年、「鶏頭論争」と呼ばれる議論を招き、佳句か駄句かを含めいまだ決着がついている訳ではない、いささかややこしい子規の代表句である。論争の内容を離れ状況だけを確認してゆくと、明治三十三年九月九日に子規庵で行われた、鶏頭を題とした句会中の一句であり、その後同年十一月一〇日の「日本」に「庭前」の前書が付され掲載されている。ところでその頃の子規の日記「仰臥漫録」によれば、句会の前日の八日に床屋がきて句会の翌々日十一日再びその床屋が鶏頭の盆栽を携えて来ている。子規はこれを不折にもらった水彩絵の具でスケッチしており「仰臥漫録」に所収である。その画によれば鶏頭は十六ばかりの花をつけている。すなわち状況としては、床屋から鶏頭の話を聞いて所望した子規が句会ではそれを頭で詠んだ句の可能性があるのであるが、前述の前書のこともあり、子規庵の庭に鶏頭があったのも確かで、この辺りはなんとも言いがたいところがある。
さて本稿で注目しておきたいのは、この句とその翌年の句「鷄頭ヤ絲瓜ヤ庵ハ貧ナラズ」である。それ以前の鶏頭の句とこの二句の違いは、下五の「ありぬべし」「貧ナラズ」という主観の導入である。子規の後の近代俳句で用いられる取り合わせの大きな潮流の一本は、例えば「嬉しさや大豆小豆の庭の秋」(鬼城)のように、景の描写と主観であるはずで、子規がただ「写生」のみに終わった作家ではなかったことは、ここにも現れていると思うのである。
さて、その後も本意本情をもたない鶏頭は自由に詠まれてきたはずであるが、共通の枠もあるようである。
鶏頭のいたゞきに降る小雨かな 吉岡禅寺洞
葉鶏頭のいただき踊る驟雨かな 杉田久女
これらは別々の歳時記の例句に収まっているが、かなり似ている印象であり、近世句の②に分類できよう。以下、恣意で引いた近現代の句を、同様に前々回の番号で示す。アルファベットはその時付した記号と対応し、句に共通点のあることを示す。
② 人の如鶏頭立てり二三本 前田普羅
③ また夜が来る鶏頭の拳かな 山西雅子
④a 身の中に種ある憂さや鶏頭花 中村苑子
③④ 種吐かす鷄頭逆さ吊りにせる 中原道夫
⑦c 火に投げし鶏頭根ごと立ちあがる 大木あまり
⑦c 鶏頭を抜けばくるもの風と雪 大野林火
⑦d 鶏頭の花にもありて裏おもて 鷹羽狩行
⑨ 鶏頭を活けて忌日でありにけり 稲畑汀子
さらに、子規の句(とその解釈論争)の影響で詠まれたのではないかと思われる句群がある。
鶏頭立つ子規の六畳臥て一畳 神蔵器
けいとうの五十本ほど死ねといひ 小川双々子
鶏頭の十六本目は臨界点 行川行人
鶏頭の雄弁な首切り落とす 三木基史
これらは、この時代の詠みの「枠」の一例と見るべきなのかもしれない。
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