2015-12-27

【句集を読む】「病人にメロドラマなし」 佐々木義夫遺句集『棕梠茫々』を読む 今野浮儚

【句集を読む】
「病人にメロドラマなし」
佐々木義夫遺句集『棕梠茫々』を読む

今野浮儚

芸術は享楽だという考えには共感できない。確かに芸術は享楽でもある。そうでなければ人間は芸術などつくらないだろう。しかし芸術の本質は享楽にはない。それは体験なのである。
セルジュ・チェリビダッケ

去年の夏の盛り、いつもの様に小説を物色してしていたのだが、平積みにされた小説の一角でこの古い句集を見つけ、百円という安さも手伝い数冊の小説と一緒に佐々木義夫遺句集『棕梠茫々』を購入した。

さてどんな俳人であろうかと早速PCで検索したが、ヒットする情報は皆無に等しい。どうやら佐々木義夫もまた、膨大な俳句の系譜に埋もれてしまった俳人であるらしい。しかしながらこの早世の俳人の句とその義夫を支え続けた妻、喜美枝の文章に触れる度、俳句という詩型を通し、懊悩・葛藤し続けた義夫の姿を想像し、一句一句に没入していく私がここに在る。

傷兵の頬紅潮し蟻払う

老鶯が熊笹黄なるところより

雪渓をわたるひとりとなりにけり

ちんぐるま露りんりんと吹かれけり

師を呼べど蚤の蒲団の睡ふかく

以上の句は昭和17年、立命館大学法科在学中、俳誌「鴫野」にて本田一杉に師事していた頃の作品である。この頃はホトトギス派の花鳥諷詠に忠実な写実を基調とした句が中心である。時代背景も勿論あるだろうが、当初より義夫の句は老成し、どこか寂寞とした表現が目立つ。義夫には明るさの裏にある陰の部分に寄り添う気質があったように思われる。

佐々木義夫は大正11年生まれの大阪市の俳人である。俳句を始めた時期は不明だが、この句集は昭和17年、義夫が大学在学中に詠んだであろう一群から始まり、昭和35年に肝硬変にて没する直前の絶唱までを収めたものである。

学業や仕事の合間を縫い、義夫はあらゆる場で旺盛に俳句を詠んでいるが、この頃、立山や男山の他に長島愛生園にも立ち寄った様子が伺える。ここで義夫は癩(現在はハンセン病で統一)の俳人玉木愛子と出会う。

盲導鈴花大根の風許り

花の坐にはこばれ生る影法師

玉木愛子は思春期から鬼籍に入るまで家族と別れ、生涯を長島愛生園で過ごした俳人である。盲導鈴は視覚障害者を導く音声誘導装置である。硬質かつ単調に、命を救う為の音色を響かせる盲導鈴。しかし外では花大根が咲き、それを揺らす滑らかな風が吹いている。隔離された施設にも普段は外界と変わらぬ牧歌的な風景が広がっているのだ。尚、玉木愛子との交流はその後も続いたようで、愛子の訃報に際しては以下の句を残している。

濃あやめに低くまり生き癩聖女

万緑に眼帯厚し癩聖女

ハンセン病により失明した玉木愛子に対し、鮮やかな色を与えているのが印象的な句である。当時、ハンセン病は遺伝病かつ強力な伝染病と考えられ、患者は家族から引き離され生涯をこのような隔離施設で過ごした。このように義夫の目線は常に人間のささやかな暮らしに寄り添うことを忘れなかった。昭和19年2月、応召した義夫は海軍二等水兵として呉海兵団に入団する。その間も医官を志しながら句作に励む。義夫は大変な勤勉家であったようで、その後の人生に於ても様々な検定試験に合格し、家業を継いでからも遺憾無く経営手腕を発揮し、事業拡大に寄与することとなる。

駅凍てゝ別離のこゝろ定まらぬ

父母を夢に見ぬ夜は凍きびし

盆の月水兵医書をひもとける

春昼の潜水艦に食器鳴る

幻燈のごとき月出で兵の墓

義夫にとって、この時期の句作とは己を慰め、鼓舞し、同時に死者を悼む儀式のような意味合いを持っていたのかもしれない。義夫自身が自然に呼応し、一体化していくような句が目立つ。復員後、義夫は結婚し、鳥取県倉吉地方裁判所を経て大阪高等裁判所にて主任書記官として勤務、俳誌「雪崩」を発行する。復刊、新刊の俳誌に進んで投句する。昭和27年には俳誌「鴫野」改め「雲海」森川暁水に所属し、私生活では一男一女(学・康子)を設ける。

子の反吐の萩の根許のさみしかり

長病みの子に花冷のうで玉子

妻とよむ出雲風土記や十三夜

妻てふ名は背にぬくき負うごと

風二日二夜の妻の遠かりき

歩みそむ子の手がつかむ妻もいとし

結婚後、義夫の好むモチーフとして、新たに「家族」が加わる。当面の生活はとても豊かとはいえない心許ないものだったようだが、とりわけ妻の前では頑是無い素直な愛情がストレートに綴られている。その反面、裁判所での主任書記官の経験は少なからず義夫にジャーナリスティックかつアイロニックな視線を与える基盤になったのではないか。

冬ぬくとし農夫の尿田に激ち

黒人の鼻毛日本の雪に対く

陀羅尼助にがし燕の金の嘴(はし)

沈下部落虎尾草に雲あそばせて

鳶追うて漁夫の渋肌雪ふれり

一句目、冬の農夫の所謂「立ちション」の光景である。田に激ち、の措辞が冬ぬくとしの麗らかな季語と相まって、牧歌的でありながらも猛る生命力を感じさせる。二句目、黒人の鼻毛に着眼したところが愉快な一句。米兵であろうか。彼の目に皮膚に、日本の雪は果たしてどのように感じられたか。三句目、陀羅尼助は漆黒の小粒の胃腸薬であり、何とも言えぬ苦味がある。飲み下す際はまるで燕の様な口許になっているのかもしれない。五句目、部落と云えばどうしても陰鬱な雰囲気が漂うが、中七以降はどこか飄々とした表情を持ちながら、ビビッドと云うよりは、モネや印象派時代のルノワールの絵画のような淡い色彩美にも溢れている。五句目、漁夫の陽に焼けた硬い素肌に柔らかな雪が触れる瞬間を捉えた然り気無さに義夫の確かな観察眼を垣間見る。

昭和27年、義夫は家業を継ぐ為官を辞する。そして昭和30年頃、己の俳句に新たな可能性を見出だそうと「鴫野」から「青玄」に活動の場を移すが、義夫の観察対象は変わらず、市井の人、とりわけ肉体労働者に向けられた。またこの頃より事業拡大の為各地を奔走するが、確実に義夫の身体は病魔に蝕まれつつあった。

俳句界はこの時期桑原武夫の「第二芸術論」からの「社会性俳句」の議論の渦中にあり、無論義夫も無関心ではいられなかったはずである。しかし、外に開かれていた義夫の目線は家業の繁忙と闘病によって徐々に内へ閉ざされてゆく気配を見せる。実際、義夫の足は句会からも遠退き、まれに発行所を訪れても事業の拡大について話題が終始することが多かったようだ。

義理で割る死者の茶碗がよき音す

霊柩車の金色稲穂より軽し

「死者の茶碗」では、神妙に、というよりはどこか「死」を近しいものとして、軽妙に詠もうとする義夫の気迫を感じることが出来るが、以後内省的な句が徐々に目立ち始める。

執拗に死を詠むおとこ鶯飼う

柿くつて仰臥の顎を濡らしけり

病人にメロドラマなし菊日和

わが死ねばねんねこの妻寒からむ

世にのこす白足袋ほどの素心は

病人にメロドラマなし、とは何とも酷な表現であるが、実際病を持つ者の実感として、ドラマの様な華麗な展開など無く、ただただ死への退屈なカウントダウンを菊の盛りの穏やかな日も身に刻むのみである。義夫はこの句集の上梓を待たずして40歳を前に没する。絶唱は、心身の奥底からの叫びを聴くような痛々しさに満ちている。しかし、幸いと云うべきか、青玄の仲間で共栄印刷の五十嵐研三と黙約を交わしていたことから義夫の死後、非売品として『棕梠茫々』が発表される。

最後に、絶唱とこの句集の巻頭の「自序」を転載する。

絶唱

激痛の胃は炎天に謝するごと

白ばかり咲く朝顔をとおくに見る

のうぜんに柩車音なく来ていたり

酒断ちし目がきれいなと二度と言うな

時かけて炎天にごりよわり行く

自序
句集を作す意味は、それこそ各人様々であろう。まとめて一冊にして見るとき、自らの貧しさを沁々と思い知らされる事は多くの人の感慨ではあろう。
私は、それとは違った意味で、私の貧困な道程を眺められることは面白いと考える。
こんな事を書けば、如何にも尾籠、且、負惜しみめくが、あの下痢のあとの爽やかさと、虚脱感に似ていると思う。
遮二無二、写生々々をたゝき込まれた伝統派時代の無批判な追随、主情派然として嘯いた一時期、ともに懐かしい過程には違いないが、今日的な意味からは、既に自己に対する存在価値すら危ぶまれる作品群となり下がった事は、如何にも残念であった。
その抜撰?されたものが、本作品群であると言う事は、これは大いに恥ずかしい次第である。
この句集は、何うすると言う性質のものでもない。
自らの為、自らを苛むため、自分の作った鞭であると思っている。
糞いまゝしい句集である。

こう記した義夫が、その後も生き続け、第二、第三の句集を綴った時、どの様な変化が起こり得たのか見届けたかった気もするが、それはもう叶わぬ願いである。


なお、俳句が新仮名遣いである点、「新しい世代を注ぐ子供達のために、眼で見る俳句としても腐心した貴方の句を、全部新かなづかいにした事、分かつていただけると思います。」(編者・佐々木喜美枝)との記載がある。


『棕梠茫々』 編集者兼発行者:佐々木喜美枝/1961年/非売品


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