名句に学び無し、
なんだこりゃこそ学びの宝庫 (22)
今井 聖
なんだこりゃこそ学びの宝庫 (22)
今井 聖
「街」第116号より転載
咳をしても一人 尾崎放哉 『大空』(1925年)
なんだこりゃ。
セキヲシテモヒトリ
放哉はそれまでの自由律俳句を一変させた。
それまでの自由律俳句は、
ミモーザを活けて一日留守にしたベッドの白く 河東碧梧桐
蒲団ふくれし夕日に浮いて飛行船が 荻原井泉水
冬夜の静けさたてよこに足袋をつづくる 大橋裸木
冬を迎ふる大根畑とわが家と 中塚一碧楼
かそけき月のかげつくりゆく虫の音よ 野村朱鱗洞
など、それぞれの俳人の個性に依って多彩な文体を示していた。
自由律俳句とはそもそも定型の縛りから抜けて、個々の感情、感動の自由な律動に拠って作るという趣旨で、俳人各々のスタイルが違っているはむしろ当然のことであった。
ところが放哉が出現してから自由律俳句は「放哉調」一色になったのではないか。
僕は放哉以降の自由律俳句についての詳細を見ているわけではないが、例えば、山頭火と住宅顕信などは放哉調と断言していいのではないかと思う。
顕信の放哉への傾倒は知られるところだが、山頭火もまた三歳年下の放哉の作品に傾倒しその放哉調をなぞった。
へうへうとして水を味ふ
一羽来て啼かない鳥である
うしろすがたのしぐれてゆくか
どうしようもない私が歩いている
音はしぐれか
酔うてこほろぎと寝ていたよ
鴉啼いてわたしも一人
山頭火調はそのまま放哉調である。
放哉の、
つくづく淋しい我が影よ動かしてみる
こんなよい月を一人で見て寝る
たくさんの児等を叱つて大根漬けて居る
底がぬけた柄杓で水を呑もうとした
なにがたのしみで生きて居るのかと問はれて居る
などの「長い」作品から
一日物云はず蝶の影さす
氷店がひよいと出来て白波
何か求むる心海へ放つ
霰ふりやむ大地のでこぼこ
夕の鐘つき切つたぞみの虫
墓の裏に廻る
渚白い足出し
霜とけ鳥光る
などの短い(短律と呼ばれる)作品まで、放哉調は放哉以降の自由律の代名詞になったのである。
これは自由律俳句にとって良いことだったのか。
放哉と並ぶ自己の型を創出する才能が現れなかったとも言えよう。
自由律俳句の論理はどういうものなのか。俳句定型や季語の呪縛から抜けて自己の(内在律)に依って一句を為すという言い方は理解できる。
例えば
咳をしても一人
は、セキヲ、シテモ、ヒトリの三・三・三調。
それぞれの三が、五と七と五に充当される内容を持てば定型を短縮させた詩形が定型句と同様かそれ以上のインパクトを持つという分析もできる。
また、楸邨や草田男の、
冬嶺に縋りあきらめざる径曲り曲る
あかんぼの舌の強さや飛び飛ぶ雪
楸邨も草田男は「曲る」や「雪飛べり」では満足が行かなかった論理を思うと自由律俳句と相通うものがあるのではないか。
定型韻律の鋳型に嵌めた場合に、得られる効果もあるが、失われるものをある。それは「思い」を言葉に乗せるその重さのごときものではないか。「曲り曲がる」や「飛び飛ぶ雪」はそのことを我らに示してくれる。
ところで僕は放哉に寄せる個人的な思いもあって、そのことにちょっと触れさせていただく。
僕はそのことを二〇一二年の七月に鳥取市の公報「とっとり市報」に「放哉の通学路」と題して書いた。
僕は新潟で生まれたが三歳から十二歳までを鳥取市で過ごした。だから心の故郷は鳥取市である。
新潟出身の父は戦後すぐ旧鳥取高等農林の教員として赴任し市内の和菓子舗「亀甲や」の娘を娶った。因みにこのとき二人を引き合わせた仲人が高農の校長で千住三兄弟の母千住文子さんの父君、角倉邦彦氏である。
二人は新潟で僕を産んだ後鳥取市に戻った。
立川町一丁目八十八番地。十三歳で米子市に移るまでここで暮らした。
十四歳で俳句を始めた僕は米子東高校の図書館で「尾崎放哉」を知ったが、当時放哉はまだ一般的には無名で、面白い俳句を書く地元の俳人、くらいの印象しかなかった。
後年あらためて放哉を読んで驚いた。
放哉は一八八五年に鳥取市吉方で生まれたあとすぐ立川町一丁目九七番地に移って一九〇二年一高に入学して上京するまでここで暮らしている。
僕が居た場所とほんの数番地しか違わない。
そういえば自宅から五十メートルほどのところに古い建物があり、そこになにやら碑のようなものがあったのを思い出した。
行ってみるとあった。句碑には、
咳をしても一人
とある。
僕はここから放哉と同じ鳥取市立修立小学校に入学し、三年生のとき鳥取大学付属小に編入学したので、こんどは放哉が鳥取一中(現鳥取西高)に通ったのと同じ道を歩いて通学したことになる。
浅からぬ因縁である。母は短期間だが鳥取西高で数学を教えていた。
放哉と僕の共通の通学路は立川町からの「山手通り」。
右手に観音院、廣徳禅寺の前を抜けて、樗谷公園から下りてくる上町の十字路を渡りそのまままっすぐ西高、付小に到る道。
放哉を思うとき、彼の鳥取弁の句
月夜の葦が折れとる
みんなが夜の雪をふんでいんだ
などとともに真正面に久松山の見えるこの道を必ず思い出す。
この小文が公報に載ったあと、この道に「放哉の小径(こみち)」という名がついて立札も立った。
僕の誕生日は芭蕉忌なので、てっきり芭蕉の生まれ変わりかと思っていたが、ひょっとすると僕は放哉だったのかもしれない。
なんちゃって。
なんだこりゃこそ学びの宝庫。
0 comments:
コメントを投稿