2016-01-03

【八田木枯の一句】煩悩の手毬ついてはつき外し 角谷昌子

【八田木枯の一句】
煩悩の手毬ついてはつき外し

角谷昌子


煩悩の手毬ついてはつき外し  八田木枯

第六句集『鏡騒』(2010年)より。

寺々の除夜の鐘を聞いて新しい年を迎える。百八煩悩を取り去るために撞かれる鐘の音は、しみじみと心にしみ入る。迷いは霧散したはずだが、そうすっきりとはいかないもの。めでたく年明けて手毬をついても、うっかり手を逸れてしまう。それはふと胸奥を不安がかすめたせいなのだ。毬は現世を逃れるように、何処へか果てしなく転がり続けてゆく。

手毬をつくときは、唄に合わせてひとつふたつと数を増やしてゆく。失敗してしまうまで、数はひたすら大きくなる。ところが木枯はかつて〈とこしへに数を捨てゆく手毬うた〉『天袋』と詠んだ。「手毬うた」を口ずさみながら「数を捨て」るとしたのだ。そこには煩悩を捨てようとする願いが籠められていたのだろうか。この世のさまざまな欲を捨て去ることの難しさを知るがゆえに、叶わぬ思いをつのらせたのか。

〈捨てし数いくつかしれず手毬つく〉(『天袋』)もある。来し方を振り返ると、日々の生活のために「捨て」てしまったことも多々あった。そんな失うことの繰り返しの上に、現在の自分の位置は築かれている。はなはだしい喪失感を抱きつつ、ひとつづつ手毬を弾ませて毎日を重ねてゆく。煩悩があるため、つい「手毬ついてはつき外」すのだ。しかし欲があるゆえに生きがいもできるだろう。手毬をつきながら、木枯は煩悩を飼いならし、さらなる句境へ進まんと、己を鏡に映し出しているのだろうか。さまざまなものを捨てて、俳諧の鬼となりゆく姿には、青白い焔がゆらめいている。


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