自由律俳句を読む 122
「鉄塊」を読む〔8〕
畠 働猫
あけましておめでとうございます。
皆様にとってよき一年となりますよう心よりお祈り申し上げます。
本年もどうぞよろしくお願いします。
元日や餅、二日餅、三日餅 尾崎放哉
小学生の頃は、毎年のように年賀状に「おもちを食べすぎないでね」と書き、書かれたものだが、最近とんと「もち」を食べなくなった。
かつて自分は餅が好きで、正月三が日と言わず、あるだけとにかく食べていたように思う。そうした餅欲が今やまったく失われてしまった。
毎年正月用に切り餅を買うものの、袋すら開けずに正月を終えることが続いている。
その自分の変化の理由を考えてみると、やはり家族の問題が影響しているのだろうと思う。
今考えると、餅は団欒の象徴であったのだ。
団欒の中でこそ、餅はいくらでも食べられたのである。
「おもちを食べすぎないでね」という言葉が、ある意味で言祝ぎであるように、餅とは幸福の象徴であった。
放哉の句においては、餅は正月にもらったものであろう。
これまでの自分は、ほかに選択の余地がない様子が詠まれているのだと思い、餅に飽いた気持ちを単純に読み取っていた。
しかし餅を幸福の象徴として考えたとき、その読みはより複雑な屈折したものに変化した。
このように「読み」もまた日々更新されるものである。
同様に「読み」を更新される出来事が、この元日にあった。
今年の正月は、年明けの入院に向けてと例年の年越しの準備とが重なり、慌ただしいものになった。
それにも関わらず、普段仕事でいない自分が家にいるためか、猫たちは妖怪すねこすりとなり、始終足元にすり寄って歩行の邪魔をしてくる。
ともあれ元日を迎え、介護中の母にそばなど食べさせ、やっと一息ついたところでふと見れば、太った黒猫があおむけでストーブの前に寝ている。
そのなんともだらしのない姿に思わず力が抜け、頭に一茶の句が浮かんだ。
猫も猫なりに安心しているのだろう。
まさに「おらが春」と言っているかのようであった。
以前から好きな句ではあったが、このとき実感として理解できたように思う。
「読み」すなわちコンテクストは経験や体験によって日々更新されていくものだ。今年も様々な経験をしながら、新しい読みやより本質へ近づく読みを目指していきたいものである。
さて、「鉄塊」においても2013年から2015年まで3度、新年詠が企画され、当時の参加者の句が寄せられた。
今回はそれらの句を紹介したい。
◎鉄塊新年詠(2013)より
うすまった酒のんで居る初日出るころ 天坂寝覚
二日から人が減る神社三日まで待て 渋谷知宏
ひょっこり仮面は誰でしょう 中筋祖啓
年が明けていた窓の無精髭 畠働猫
起きればみんな初詣 馬場古戸暢
新年の闇へ放ってみる雪玉 藤井雪兎
喉詰まらせて逝った話。あと今年もよろしく 本間鴨芹
正月休みなんてない猫が五時から鳴いてる 松田畦道
◎鉄塊新年詠(2014)より
皆の正月から逃れてカフェで目薬 小笠原玉虫
燃やすものがない火を見ている猿だ 地野獄美
伊勢海老、分かったからもう怒るな 十月水名
餅つきで筋肉痛になりました 中筋祖啓
正月の猫ずっと食卓にありをりはべり 畠働猫
抱き上げる子の両手に熨斗袋 馬場古戸暢
初日と共に影のあらわれ 藤井雪兎
年に一度の静けさである元旦の朝 風呂山洋三
◎鉄塊新年詠(2015)より
薄氷踏んでゆくちちははの生きる街 小笠原玉虫
川沿いのここはどこだろう除夜の鐘 武里圭一
まだおだやかな空初日出る 畠働猫
甥も姪も俺もお熱だ 馬場古戸暢
* * *
自由律俳句においては季語を用いるかどうかも自由である。
ここで挙げた句群は、新年詠という性格上、新年の季語を用いた句が多い。
自由律俳句と季語との関係については、いずれまた時間を割いて考察したいと考えている。
以前、句友の小澤温(おざわ はる)が、「短律の自由律俳句は、それ自体が季語になろうとしている」というようなことを語っていて、ひどく納得したことがある。
確かに「せきをしてもひとり」「陽へ病む」などはそのまま季語となっておかしくないものである。
季語とは、背後に膨大な物語を抱えた言葉である。それを用いることで俳句は無限の物語性を獲得している。
自由律俳句における短律句とは、その物語性を生む言葉(季語に変わるもの)を生み出す試みである。
これは自分にはすんなり納得のいく考え方であり、「読み」であった。
一りん咲けばまた一りんのお正月 種田山頭火
今この瞬間も、多くの句が詠まれ、読まれているのだろう。
美しい句に出会うことはもちろん、自分を揺さぶるような「読み」に出会うことも無上の喜びである。
自由律俳句においても、新しい句が一輪また一輪と咲き、また優れた「読み」が一輪また一輪と咲き誇ることを願って、この正月の筆を置く。
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