2016-02-21

【句集を読む】 僕はどうすれば外に出ることができるのか知らない 中村汀女『花影』の一句 福田若之

【句集を読む】
僕はどうすれば外に出ることができるのか知らない 
中村汀女『花影』の一句

福田若之


外にも出よ触るるばかりに春の月  中村汀女

あなたは、外にも出よ、と僕に命じる。その言葉は、今こうして、あなたから、こなたに、僕に届く。

けれど、僕はどうすれば外に出ることができるのか知らない。

あなたは、あたかも、外に出ることは簡単なことだと考えているかのようだ。あなたは、僕に、どうすれば外に出ることができるのか、言葉にして教えてはくれない。どうすれば。外にも出よ、と命じたとき、あなたは、きっと、そんな問いを投げ返されるとは考えもしなかったのだろう。それどころか、あなたは、いまだに、僕が投げ返すこの問いが、いったい何を問いかけているのか、よく分かっていないかもしれない。

この問いにおいて問いかけられているのは、こういうことだ。つまり、外、に、出る、とはそもそもどういうことなのか。また、僕にそうすることができるのは、僕が、どうあるときなのか。

咳の子のなぞなぞあそびきりもなや》とも書いたあなたは、もしかすると、僕の問いはなぞなぞあそびだ、とつぶやくかもしれない。きりもなや、と。そのとおり。これはきっと、なぞなぞあそびだ。そして、たしかに、このなぞなぞあそびには、きりなんてない。ごほ、ごほ。それでも、僕は、あなたと、そんななぞなぞあそびをしてみたい、と思う。ずっとではなくていい。ほんのすこしのあいだ、つきあってもらえたら、と思う。ごほっ、ごほん。

さて、外にも出よ、とあなたは言う。だから、あなたからすれば、僕は、内にいるということになるのだろう。そう、僕が外に出ることができるのは、僕が内にいるときだけだ。

とはいえ、そもそも、僕たちが何の内にも放り込まれずにあるということが、かつて一度でもあっただろうか。僕たちは、いつでも、気がつけば、どこからともなく、ここに放り込まれているのではなかっただろうか。ちょうど、あなたの、外にも出よ、というこの呼びかけにおいて、僕が、いつのまにか、あなたの言葉の内へと放り込まれていたように。

ごほ、ごほ。あなたは、外にも出よ、と僕に命じる。ごほっ、ごほん。けれど、ほんとうのところ、あなたは、この言葉によって、内にいよ、とも命じているのだ。あなたが、外にも出よ、と僕に命じることができるのは、ただ、僕が内にいるときだけなのだから。僕は、外にも出よ、と言われるために、前もって、内にいなければならない。

あなたは、外にも出よ、という言葉が、そのまま、内にいよ、を意味するということを、きっと、分かっていたはずだ。そして、もしそうであるならば、ほんとうのところ、このなぞなぞあそびをもちかけたのは、僕ではなくて、あなたのほうではないだろうか。あなたが、いきなり、外にも出よ、なんて言うから、気がつくと、僕もあなたも、このなぞなぞあそびのなかに放り込まれてしまっていた。そういうことだったのではないか。

あなたは、外には春の月があるという。あなたは、僕に、そう教える。内にはその外があり、そこには、手の触れそうなほど近くに見える春の月があるのだと。とはいえ、僕もまた、外があり、そこに月があるということぐらいは、あなたに教わらなくともなんとなく了解していたかのようだ。そして、あなたもそのことをよく分かっている。げほげほっ。だからこそ、「触るるばかりに春の月」という言葉を聞けば、僕も外に出たいと思うに違いない、とあなたは考えたのだろう。

けれど、あなたは、まさか、僕が、どうすれば外に出ることができるのか知らないなどとは、きっと思いもしなかっただろう。それに、あなたは、手の触れそうなほど近くに見える春の月が、僕にとって何ら心ひかれるものではないかもしれない、などとは、考えもしなかっただろう。いや、たしかに、僕にとって、それはとても心ひかれるものだ。けれど、それは、誰にとっても心ひかれるものであるとは限らない。だから、この言葉では、そういう月に心をひかれない人を外に連れ出すことはできないだろう。あなたの言葉は、きっと、外に出ることができて、しかも、手の触れそうなほど近くに見える春の月に心をひかれる人のことしか、連れ出すことができないだろう。

つまり、あなたは、この言葉では、分かり合える人しか、動かすことができない。この言葉において、あなたは、分かり合える間柄の内にとどまっている。ごほっ。だから、あなたも、その点では、内にいるまま、外に出ることを知らないでいる。ごほっ、げほげほ。

とはいえ、そんなあなただからこそ、外にも出よ、と呼びかけることができるのだ。そう僕に命じながら、あなたは、きっと、あなた自身、外に出ることを望んでいるのだろう。あなたは、きっと、月にその手で触れたいのだろう。あなたの手の届かない、あなたの言葉の届かない誰かに、あなたから見てはるかあなたの、その誰かに、その手で触れたくて、触れたくて、どうしようもないのだろう。あなたが、きっと、あなたと呼ぶに違いないその誰かに、あなたは、どうしようもなく触れたくて、けれど、あなたには、どうしようもないのだろう。げほげほ、げほん、うえっ。

けれど、それは、僕にもどうしようもないことだ。だから、このなぞなぞあそびには、きりなんて、ないに決まっている。僕たちは、ときどき、外に出るつもりで、戸を開け、敷居をまたぎさえする。けれど、そうしてみたとき、僕たちは、結局、自分たちがまだ何かの内にとどまっていることを思い知る。その一歩は、僕にとってはちいさな一歩でしかないだろう。こんなふうにして、僕たちは、外へ出ることをもはや知らない。

たとえば、寺山修司が「書を捨てよ、町へ出よう」と言うとき、僕は、彼の言葉の内に、あなたの言葉のぼんやりとしたこだまを聞きとる。もちろん、空耳かもしれないけれど、とにかくそんな気がしてならない。もしかしたら、あなたが、外にも出よ、と彼に言ったから、彼は、書を捨てよ、町へ出よう、と僕に言うのではないか。いや、あなたに聞いてもわからないだろうけれど。ちょっと話が逸れた。僕が言いたかったのはそのことではなくて、もし、僕が、彼の言葉を受けとった結果、書を捨てて、町へ出たとしても、そのとき、僕はなおも町の内にとどまっていることになるだろうし、それ以上に、彼の言葉の内にとどまっていることになるだろうということだ。

僕の言いたいのは、つまり、こういうことだ。僕が外に出ることができるのは、その外とこの内とがつながっているかぎりのことであって、けれど、そのとき、その外は、この内こそが内なのだと決め付けることによってのみ外であるような、そういう外でしかないということ。そして、この外は、僕たちがひとたびそこに出てしまいさえすれば、そのさらに外であるところの外に対しては、なおも内でしかないのだということ。そして、そのとき、僕たちは、もはや、僕たちは外にいる、とは、とても信じることができないのだということ。

だから、僕がどうすれば外に出ることができるのか知らない、というのは、そういうふりをしているわけではなく、ほんとうに、知らないのだ。そして、あなたが、手の届かない春の月に触れたいと願うとき、あなたは、それがあなたからみて外にあることを信じ、かつ、その限りでそれを欲しているけれど、そのとき、あなたが言葉にすることなく信じているのは、それがあなたとともにすでに何かしらの内にあるということなのだ。うう、げほげほ。

僕もまた、あなたとともに、外に出ることを願った。そして、そのために、あなたのほうへと、あるいは、よりはるかあなたのほうへと身を投じようとした。けれど、そのとき、僕たちには、あの月の暗い裏側のことなどは思いもよらない。僕たちが外に出た気でいるのは、いつも、それとは別の外から目をそむけながらのことでしかない。僕たちが、どうすれば外に出ることができるのかあたかも知っているかのように外に出たいというとき、それは、むしろ、どこまでも内にありつづけるためでさえあるのだろう。そうであるから、この句においては、僕たちをそこにあらしめる内が、これ以上ないほど肯定感に包まれている。この句の内で、あの春の月に僕たちの手はまだ触れない。それにしても、さっきから僕の内から外へ向かって出続けている、こ、この、へっ、へーっくしょん!

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