【句集を読む】
記憶の人としての書き手
藺草慶子『櫻翳』を読む
福田若之
問い。藺草慶子『櫻翳』(ふらんす堂、2015年)に、「忘」の字を含んだ句は何句あるか。
答えは、三句だ。
恋せよと蜩忘れよと蜩 藺草慶子
忘るべきことあり秋刀魚よく光る
惜春やてのひらほどの忘れ潮
この三句を読んで、奇妙に思うことはないだろうか。
蜩は書き手に忘れよと命じ、書き手自身もまた、秋刀魚のかがやきをまぶしがりながら、忘れなければならないことがあるのを感じている。しかしながら、忘れ潮は、引き潮がこちら側に残していったものであり、それが残されているからこそ、書き手は、引いていった潮を忘れることができない。だから、このとき書き手を満たしているのは、過ぎ去るものを惜しむ心にほかならない。
書き手は、「忘」という字を含むこの三句においてしか、何かを忘れるということに言及していない。だから、少なくとも句を読む限り、この句集の書き手は、何かを忘れるということがないようにみえる。これから詳しく見ていくように、この句集の書き手は、一切を忘れることができない書き手として、書いているのである。そして、思うに、そのことこそがこの句集のただならなさなのだ。
それにしても、この句集はどうしてそんな書き手のものとして書かれなければらなかったのか。
古びざるものに言の葉寒茜
書き手は、言葉は古びないものだと書く。そうであるならば、言葉にされたものは、もはや忘れられることがないだろう。天金の装丁は、もともとは、書物が傷むのを防ぐためになされるものだったという。『櫻翳』が天金の書として誂えられているのは、言葉とは古びないものであるという認識とも深く関っているのではないだろうか。少なくとも、この『櫻翳』の書き手が一切を忘れることができないのは、そこに収められた句の言葉が、ことごとく、こうした認識のもとで紡がれているからだと考えられる。
目つむれば何もかもある春の暮
それはどんな思いだろう。何もかもがそこにある。あってしまう。《愛されし記憶おほわた指に来よ》とも記している書き手がこのとき「ある」と感じるのは、もちろん不幸な記憶ばかりではないに違いない。しかしながら、この書き手には忘れなければならないことがあるのだということを僕たちもまた忘れずにいるとき、ここに読まれるのは、ただの満たされた気分などでは決してありえないだろう。
ところで、先に挙げた忘れ潮の句もそうだが、この書き手は、消えずに残っているものに繰り返し言及している。例をいくらか並べておこう。
黒板に数式のこる春の雪
鶏頭の抜き捨ててある校舎かな
ミサ終わりたり花冷の譜面台
敗戦日なほ海底に艦と祖父
帰らむと白鳥のこゑ谺なす
全集は旧居に古りぬほととぎす
冬の海わが足跡のまだありぬ
拭けど拭けど鏡に桜顕はるる
もちろん、《ひといきに消す黒板や初嵐》という句もあるように、それらは、いつかはきっと消されるか、あるいは自ずから消えてしまうものだ。けれど、この書き手は、自分が消した黒板に何が書かれていたかを、決して忘れることはないだろう。たとえば、「私が震撼するのは、この作者の成功した(と私に思える)句では、景にせよ時にせよ何か日常的な意味での核心部分が去った、刳りぬかれた、その直後のいわゆる残影をつねにありありとそこに定着させている、ということだ」(杉本徹、「「残」と「香」」、『ふらんす堂通信』、第147号、2016年1月、21頁)という評は、書き手のこうしたありようを捉えたものだといえる。そして、肝心なのは、消えていったものが、この書き手にとって、いまここに残っているものと同じか、もしかすると、それ以上の重みを持っているということだ。そのことは、次の句によく表れている。
青嵐や死者ことごとく吾を統ぶ
この書き手は、無数の死者たちに統べられながら、書き続ける。この書き手は、その重みを、その身ひとつで引き受ける。でも、どうして。
それは、おそらく、この書き手がそれを自らの運命として引き受けているからだ。
花の翳すべて逢ふべく逢ひし人
すべての人と逢うべくして逢ったのだから、この書き手はそれをなかったことにすることができない。忘れたことにすることが、できないのである。
ふくろうの貌のくるりと悔はあるか
あるに決まっている。そのすべてをこの書き手は決して忘れることがないだろう。だが、また一方で、この書き手は、自らの肉体が滅びゆくものであることも忘れない。
紅梅や柩に入れてほしき文
月光に蝕まれゆくごとく座す
一病にいのちふかまる冬の草
半生の過ぐ数の子のほろ苦く
したがって、死はつねに緩慢に進みつつある。死は、そうした時間の広がりのなかで、ぼんやりとではあるが、確かにその身にひきつけて、感じ取られるのだ。
死は漂ふひるがほの花のふち
死は、ひるがおの花ほどには輪郭を備えてはいない。だが、そのあたりに、たしかに、漂っている。そして、書き手は、このように自らの生に限りのあることを感じつつ、晩年のよろこびを期待するのである。
よろこびは晩年に来よ龍の玉
寒紅梅晩年に恋のこしおく
とはいえ、書き手にとって、そうした時間の流れは記憶を薄れさせるものではない。記憶は、この時間のなかで、薄れるのではなく、ただ、遠ざかってゆくだけだ。
白日傘振り向けばみな遠き景
振り向いて、遠い景がある、というだけならば、それは空間における遠さでしかないだろう。しかしながら、ここで遠いのは、複数の景、しかも、すべての景である。複数の景が、遠いのだ。この遠さは、明らかに、時間における遠さにほかならない。
そして、次の句の「あり」という強い断定から感じられるように、それらの遠ざかるものたちは決して薄れはしない。
納めたる雛ほど遠き人のあり
ここでの「納めたる雛ほど」という叙述を、空間的な遠さを示すものと読むことはできないだろう。それは、思い返される桃の節句の、飾られていた雛の記憶の遠さである。ひとは、もしかすると、《若き日々あり初蝶を見失う》といった句に語り手の忘却の表れを見ようとするかもしれないが、「雛」の句とつき合わせて読めば、この「初蝶」の句においても、「あり」という現在形の動詞によって、「初蝶」と重ねあわされる「若き日々」がそうした遠さにおいてなおも記憶されていることが示されているのが分かる。
鳴きだせば蜩の木のとほざかる
蜩は忘れることを書き手に命じるのだった。しかしながら、その声を聴くとき、書き手は、現在が過去へとただひたすら遠ざかっていくのを感じるばかりである。
この句集において、記憶は、像を持っているにもかかわらず、本質的には視覚的なものではない。それゆえ、記憶において濃淡は本質的ではない。「薄れる」という言いまわしは、そもそも、この書き手の記憶の捉え方にはあまりそぐわないのである。記憶は、像ではなく存在として、じかに把握されている。この書き手は、記憶が「見える」かどうかによらず、記憶は「ある」と言うだろう。目をつぶる。すると、何もかも、あるのだ。遠ざかりながら、見えなくなりながら、なおも、あるのだ、と。
こうして遠ざかっていく過去がある一方で、語り手をひたすら待ち続けているものたちがいる。死者が、墓が、書き手のことをずっと待っているのである。
亡き人に待たれてゐたる花の山
われを待つ墓一つあり遅桜
死者と墓は果てしなく待ち続けるだろう。書き手の死後もまた、それらは何か別のものを待ち続けるだろう。書き手には、そのことがよく分かっている。そして、ひるがおの花のふちに死が漂うのを感じながら、書き手はこう問う――
ひるがほや永劫は何待つ時間
それにしても、永劫が何を待つ時間なのかという問いは、この書き手によって、いかなる問いとして立てられているのか。永劫は、そもそも、なぜ、この書き手にとって、何かを待つ時間であるのか。待つということは、来るべき何かのために、移り変わることなくありつづけることだ。したがって、この問いがふさわしいものとして立てられるためには、少なくとも、何かしらのものが、永劫に移り変わることなくありつづけているのでなければならない。『櫻翳』の書き手にとって、それが何であるのかを、僕たちはすでに見た。それは、書き手にとって古びないものであるところの、言葉である。
このことは、しかし、書き手が言葉とともに待つということではない。これまでにも見たとおり、書き手は死者と墓へむけてすすんでいくのだし、過去の景からは自らの歩みによって遠ざかりつづけている。そのことを思えば、言葉は、書き手そのものというよりは、むしろ書き手の足跡のようなものだといえるだろう。ここで、いま一度、《冬の海わが足跡のまだありぬ》という句を引用しておこう。書き手がすすむとき、そこに残されるその足跡としての言葉が、まだあるものとして、永劫にあるものとして、何かを待ち続けるのである。
「永劫は何待つ時間」と問う書き手にとって重要なのは、その答えではない。そうではなく、永劫に何かを待つものとしての言葉というものの不思議であろう。言葉は、あきらかに、ひるがおの花とは異なるものである。ひるがおの花は刹那のものだ。それは半日限りでしぼんでしまう。しかしながら、そのひるがおを表す言葉は、この書き手においては、古びることがない。
この古びない言葉、すすむものから遠ざかりはしても決して薄れることのない言葉を前にして、それをどう感じるかは、ひとによって異なるだろう。たとえば、「詩は聴者の胸に一つの波を立てることが出来れば、あとは流れ去って忘却の淵に沈むことをもって本懐とする。だが俳句が希うものは流れ去る波ではない、もっと実体的なもの、一つの認識の刻印である」(山本健吉、「俳句の方法」、山本健吉、『俳句とは何か』、角川学芸出版、2000年、65頁)という言葉にうなずくひとであれば、『櫻翳』においてそうした希望が実現されるのを感じながら、そこに快く身を浸すことができるのかもしれない。
けれど、僕はここまで『櫻翳』の言葉がいかなる原理によって紡がれているのかを書いてきて、実のところ、こうして紡がれた言葉に息苦しさを感じずにはいられないのである。いや、こう書くだけでは、まるで句集の書き手はこの息苦しさを感じていないかのようだ。そうではない。僕にとって『櫻翳』を読むとは、この息苦しさを、まさしく書き手と一緒になって感じることだったのだ。それは、忘れるべきことを忘れたいと願いつつ、自らに言い聞かせるように《もつと軽くもつと軽くと枯蓮》と記す書き手とともに、言葉が古びることをやめたときに生じるこの息苦しいほどの重さを、それに圧し潰されそうになりながら、感じることだったのである。
ここで言葉を終えてもよかったのだけれど、僕は読者としてはおそらく『櫻翳』の期待を裏切り続けているので、やはり、そのことだけはしっかり認めておこうと思う。僕は、結局のところ、言葉は古びないものだという原理のうえに成り立つ『櫻翳』の言葉を、一種のサイエンス・フィクションとしてしか読まずにいるのだ。この句集は、きっと、言葉は古びないものだと言われたとき、しみじみとそれにうなづく読者をこそ期待しているに違いない。
けれど、現に言葉は絶え間なく古びつづけるのだし、僕にとって、俳句は簡単に忘れ去れるがゆえに愛おしいのである。俳句は短いがゆえに、覚えやすいだけでなく、むしろ忘れやすい。『櫻翳』のもろもろの句もその例外ではないだろう。たしかに、僕は、句集を開いているあいだは、もし言葉が古びなかったら生じたに違いない苦しみを、その書き手とともに擬似的に生きる。けれど、それを読み終えるときには、僕は、必ず、言葉が古び続けるもとの世界に生きているだろう。ただし、そうやって読み終えることは『櫻翳』を無化することではない。というのも、ひとは『櫻翳』を忘れるからこそ、ふとしたときにそれを思い出し、きっと読み返すことになるのだから。
2016-02-28
【句集を読む】記憶の人としての書き手 藺草慶子『櫻翳』を読む 福田若之
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