2016-04-03

自由律俳句を読む 131 「鉄塊」を読む〔17〕 畠働猫

自由律俳句を読む 131
「鉄塊」を読む17

畠 働猫


近年、「無敵の人」という言葉がネットスラングとして用いられている。
もともとは「2ちゃんねる」開設者として知られる西村博之氏が自身のブログの中で用いた言葉であったようだ。
同氏はそのブログ内で、無職で社会的信用がなく、逮捕や刑罰がリスクにならない(かつインターネットの普及により、社会的影響力を行使できる状態にある)人々のことを「無敵の人」と、個人的に呼んでいると述べている。(無敵の人の増加。「ひろゆき日記@オープンSNS」)
氏が上記の内容を述べているのは2008年の記事であるが、2016年現在、振り返ってみれば、多くの事件にこの「無敵の人」の関与が見て取れる。

日本には古来、「無縁」という言葉がある。
上記の「無敵の人」とは、この「無縁」の一面について強調し、現代的に言い換えた言葉であるように思う。
血縁や地縁、友人知人、家族あるいは業務上の縁など、私たちは多くの縁に縛られている。
そうした人や場所との関わりから解放された「無縁」とは、究極の自由である。
それは野垂れ死に、無縁仏となる自由でもあった。
そして放哉や山頭火に見られるように、「無縁」とは、自由律俳句における一つの傾向であった。



さて今回も「鉄塊」の句会に投句された作品を鑑賞する。
第十八回(201310月)から。
当時の句会での自評も再掲する。
文頭に記号がある部分がそれである。
記号の意味は「◎ 特選」「○ 並選」「● 逆選」「△ 評のみ」。



◎第十八回(201310月)より


ラッキーな時のウッキー 中筋祖啓
△「これは説明が必要であろう。」(働猫)

これは問い詰める必要がある。


雪が降るようにしてねらう 中筋祖啓
●「逆選。直喩でありながらここまでイメージしにくい比喩があるだろうか。もしかして自分が知っている雪とは違うのだろうか。『雪』は雪兎の隠語だったりしてね。それならば多少イメージしやすいかもしれない。」(働猫)

自分は北海道在住のため、「雪」に対するイメージが他都府県の方とは違うのかもしれない。もしそうであれば、当時逆選にとったのは言いがかりに近いのだが、今もってイメージできないことは変わらない。
鉄塊の句会は投句も互選もメールによって行う。
そのため、全国各地から参加することができる。それは長所であるのと同時に、「場の共有」が不十分であるという短所ともなる。
同じ月の句会においても、北海道の自分と九州の参加者とでは季節感を共有できないのである。


毒を盛る時の後退 中筋祖啓
△「人を呪わば穴二つ、ということかな。精神的な後退、ということか。それとも、もしこれが祖啓句だとしたら、もっと違う意味があるのだろう。忍者の動きのことかもしれないね。」(働猫)

案の定、祖啓句であった。エキセントリックである。


俺の好きな女と嫌いな女が同じ男を好きだなんてどういうことだ 藤井雪兎
△「理不尽に思うかもしれないが、それが現実であるし、『俺』は実はまったく無関係である。蚊帳の外だ。あるいは『女』と『男』は画面の中なのかもしれない。さびしい。さびしい。」(働猫)

やってみると難しいのだが、これは一息に区切りなく吐き捨てるのが正しい。
偶然にも現在、「真田丸」でこのような状況を毎週経験している。
黒木華かわいいかわいい。


他人の性交がいくつか行われているこの夜にすべきことは何か 藤井雪兎
△「性交ではないかな。」(働猫)

この回の雪兎の非リア充感はなんなのだろう。


着メロに合わせていつまでも歌っていた 藤井雪兎
△「出たくない電話であるが、自分で好きで設定した着メロなんだろう。いつまでも歌えるということは相手も切らずにずっと呼び出している。どっちも決断や行動ができないでいるのだ。めんどうくさい二人である。」(働猫)

「着メロ」というのもなかなか古臭く感じる言葉になったように思う。
そうでもないですか。


隣のチャイムの鳴り続ける秋の夜 風呂山洋三
○「並選。何があったのだろう。夜逃げだろうか。チャイムや電話のベルは悲痛な呼び声だ。不在がわかっても、関係を断たれたことを認められずに呼び続けているのだ。無関係ながらも身につまされる。しかし迷惑なのでぼくはすぐに警察に電話するよ。」(働猫)

父の入院以降、母親の借金の取り立てでよく経験した。「隣」ではなく自分の家であったが。
母親自体は、住み込みの仕事をしていたため、借金取りの対応は中学生のころから自分の仕事だった。
今と違って、早朝から深夜まで取り立てがあった時代だ。暗い記憶である。


異動する部下のあいさつ冷静な俺でいた 風呂山洋三
△「努めて平静を装ったということか。あるいは何の感慨もなかったのかな。準備していないと感情を引き出せないことってありますよね。ぼくも別れの際に何を言えばいいのかいつもわからない。」(働猫)

放哉や某頭火のような生活破綻者ではない人の句というのも新鮮と思う。
「無縁」の潮流からは遠い句であり、その模倣から自由になれる方向性であると思う。


梨剥いてもらおう洗い物の報酬だ 風呂山洋三
△「子供の心境として読むと微笑ましいが、大人の男だとすると『何を甘えているのだ』と言いたい。家事とは修羅の道である。一意専心。ただひたすら万事に心を傾注して挑むものだ。それは求道であり、見返りを求める類のものではないのである。(ん、独身です。)」(働猫)

ん、まだ独身です。


しぐるるや睨む野良居り 小笠原玉虫
△「睨まれている主体は何者なのか。野良は野良猫と読んだが、他のものの可能性もあるのかな。そういえば、野良犬というものもなくなってしまった風景ですね。私たちにはもう詠めないものになってしまったのかもしれないですね。」(働猫)

「しぐるるや」ありきで作ってしまった感がある。あるいは「しぐるるや死なないでゐる(山頭火)」あたりに引っ張られてしまったか。


先に寝てしまった雨強くなる 小笠原玉虫
△「『寝る』というと、つい男女の同衾を思ってしまいますが、これは友人同士とも読めますね。旅行などの宿泊の際に、寝入るまで尽きない話をしていた。相手が眠ってしまうまで聞こえていなかった雨の音が急に大きく聞こえてきたのだろう。雨は強くなったわけではない。人の声が途切れたことで意識されたのだ。」(働猫)

当時の句評ですでに述べているように、野沢凡兆の句「灰汁桶の雫やみけりきりぎりす」などと同様の効果が用いられている。実に技巧的な句である。佳句と思う。


甘えて包丁研いでもらった 小笠原玉虫
△「17『梨剥いてもらおう洗い物の報酬だ』と言い、この句と言い、家事に対する覚悟が足りないのである。梨を剥いてくれなくとも、甘えてくれなくとも、淡々と家事をこなす求道者がここにいるというのに。(ん、独身です。)」(働猫)

17」とは、当時の句会での選句表の番号で、上ですでに紹介した洋三の句のことである。
家事に関して、自分はかなり自信を持っている。
また、暴力をふるわず、煙草も吸わず、酒はたしなむ程度であり、運転が上手く、安定した収入があります。こんな良物件がなぜ空き家なのか。この世界は謎に満ちているな。


亀の顔出る波紋 馬場古戸暢
△「性的な意味がありそうですね。いやらしい。お風呂での戯れだろう。何をやっているのだ。」(働猫)

男の子はお風呂で遊ぶのです。


橋の上の夜釣りの女か 馬場古戸暢
○「並選。たぶん夜釣りではない。身投げを思案中か、そうでなければすでにこの世の者ではない。通りすがりにそれを見てしまって、言い訳のように『ん、夜釣りか……』と思い込もうとしているのだ。早く戻って確かめるんだ。さあ。ほれ。さあ。」(働猫)

報道されない事件事故もこうして句として残されることもある。
成仏してくれるよう祈ります。


結婚線のない手のひらふたつ 馬場古戸暢
△「岩見沢で祖啓さんに手相を見ていただいたことを思い出しました。(ん、独身です。)『結婚線のない手と手をつなぐ』この方がより哀しいか。」(働猫)

「手のひらふたつ」を自分一人と見るか、二人と見るかで句意も変わる。
ここは二人と読みたい。
愛し合いながらも、結婚には至らない関係。
今日まで何人かの女性とこうして手のひらを合わせてきたため、実感できる句である。


裏切られてぐじゃぐじゃの鶏頭見ている 十月水名
△「『ぐじゃぐじゃ』にしたのは自分なのだろう。ヒステリーがおさまったあとの景か。鶏頭が鶏の頭だったら猟奇的な光景になるね。チキン・ジョージ。」(働猫)

子規の句のせいか、一読鶏頭が一面に咲いている様子をイメージしたのだが、この句では数に触れる情報はない。一本かもしれないという見方を当時は落としていた。


時間はときどき止まっているわとすっぴんが真顔 十月水名
△「村上春樹の小説に出てきそうな女だ。現実に存在することは許されない類の女である。どうせ耳の形が魅力的なのだろう。双子かもしれない。」(働猫)

初期の村上春樹はよく読んだものだが、最近は読んでないな。


秋の朝からみんな鼻血出とるで 十月水名
◎「特選。『出とるで』言ってる場合ではあるまい。みんな出てるとは、異常事態ではないか。放射線の影響か、そうでなければスタンドの攻撃を受けているのだ。早く本体を見つけて叩かなければ、第5部(スタンドの凶悪性からこれは絶対に5部)完になってしまう。」(働猫)

何といっても衝撃的である。
シュールながら大成功の句であろう。
十月の句は意味の解体、あるいは無意味そのものを表現しようとしているように見える。しかしそれは茨の道である。既存の意味を利用できないということだからだ。
季語という無限の物語を利用することで、俳句が文字数を超える内容の豊かさを獲得していることとは正反対の道である。
十月もまた求道者、修羅であるのだと思う。


まだ死ねず透けるまで米研ぐ 地野獄美
△「既視感のある句だ。放哉あたりが詠んでいそうな。(ほめてはいません。)死に近い人が今回の参加者にあったろうか。死に遅れた、という気持ちだろうか。『米を研いで炊いて食う』という生きるための行為と『死』に向かう自分との矛盾を詠んだのだと思うが、これは本当に死に瀕した人が詠むべき句であろう。あと、研ぎ汁は透ける一歩手前でいいそうです。」(働猫)

最近はずっと無洗米です。
前回の記事でも述べたように、悲劇的な句は作品としての強度が求められる。
「死」「死ぬ」「死にたい」といった言葉を用いる場合もそれに当たると思う。


明日が迎へに来てただいまと泣く 地野獄美
△「どういう状況なのかな。ちょっとイメージできなかった。」(働猫)

未だにわからない。


無駄な努力がまた高く売れた 地野獄美
○「並選。神は見そなわす。無駄と思うことも続けていればこんな見返りがあるかもしれない。無用の用。無駄なんてことはこの世にはないのだ。ぼくの石も高く買ってください。」(働猫)

「石を売る」はつげ義春へのオマージュであるが、この時期私は河原で石を拾って自句を書いてみたりしていた。しかし札幌ではあまりよい石が見つからず、やめてしまった。売るとなればそれなりの石を拾わねばならない。
プロ意識である。



*     *     *



以下三句がこの回の私の投句。
一度溶けて固まった乳房は白い闇 畠働猫
にんぎょうを抱いた少女と夜汽車去る 畠働猫
内臓が今日を汚している俎上 畠働猫
この回は自分の「作風」というものにひきずられた感じがある。
自己模倣とでもいうのか。
非常に不自由に思う。
この頃、「鉄塊」という場そのものが、自分にとって全くの「無縁」の地ではなくなっていたように思う。その存続に多少なりとも責任を感じるようになっていた時点で、それはすでに自由な「場」ではなかったのだ。
この回から参加の十月や地野がとても自由に句を詠んでいることと対照的である。


そもそも自分が自由律俳句の句会に初めて参加したのは「千本ノック(主催:ロケッ子)」というweb上で展開されていた句会であった。
「鉄塊句会」もそうだが、メールやSNSを利用した句会においては、直接の面識のない者同士が座を囲むことができる。
上述の鑑賞中でも触れているが、こうしたweb句会の短所としては、北海道在住の者と九州在住の者で季節感を共有できないように、「場の共有」という点が非常に希薄であるということがある。
しかしその長所として、全国どこにいても参加できるということと、比較的高い「無縁」性が確保されるということが挙げられる。すなわち、現実の自分の属性から解放された自由な句を寄せることができる場であるということだ。


放浪・漂泊とまでいかなくとも、創作者は常にこうした「無縁」性を追求、あるいは必要としているのではないか。
私自身「働猫」と名乗り句作をしているのは、現実世界における自分と切り離した「無縁」性を得るためである。
現実においては倫理性を求められる職業であり、日常で使う言葉も選ばなくてはならない。それが句作に影響するとしたら、こんな不自由なことはない。
そしてそれは日常の中で少なからず感じているジレンマでもある。


歴史学者網野善彦氏がその著『無縁・公界・楽』中で次のように述べている。


*     *     *


さきに江戸時代について一言したが、実際、文学・芸能・美術・宗教等々、人の魂をゆるがす文化は、みな、この「無縁」の場に生れ、「無縁」の人々によって担われているといってもよかろう。千年、否、数千年の長い年月をこえて、古代の美術・文学等々が、いまもわれわれの心に強く訴えるものをもっていることも、神話・民話・民謡等々がその民族の文化の生命力の源泉といわれることの意味も、「無縁」の問題を基底において考えると、素人なりにわかるような気がするのである。
「人類と『無縁』の原理」(網野善彦『無縁・公界・楽』)


*     *     *


「無縁」が芸能を担う一つの条件であるとするのであれば、今後「名句」を考察していく上で「無縁」もまた、重要なテーマとなるように思う。


次回は、「鉄塊」を読む〔18〕。



参考:
・西村博之「無敵の人の増加。」『ひろゆき日記@オープンSNS2008年(ブログ)
・網野善彦『〔増補〕無縁・公界・楽 日本中世の自由と平和』平凡社、1996



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