2016-05-08

自由律俳句を読む136  「鉄塊」を読む〔22〕 畠 働猫

自由律俳句を読む 136
「鉄塊」を読む22

畠 働猫

  
先週母について述べましたが、今日は母の日ですね。
世の母たちとその家族たちよ幸せであれ。


今回も「鉄塊」の句会に投句された作品を鑑賞する。
第二十三回(20144月)から。
この回から投句数が一人3句から5句となった。
自分にとっては、遊びの幅が広がるため、よいルール変更であった。
また、第1回からの参加者である藤井雪兎がこの回から休会期間に入った。(のち退会)
これにより創立メンバーは馬場古戸暢のみとなった。
古戸暢は以後、鉄塊活動休止まで在籍、すべての句会に参加している。

文頭に記号がある部分は当時の句会での自評の再掲である。
記号の意味は「◎ 特選」「○ 並選」「● 逆選」「△ 評のみ」。



◎第二十三回(20144月)より

春めく道で拾ったナイフだ 風呂山洋三
◎「春」という季節をよく表している。のどやかさの中に、ぎくりとするような不穏なものが潜む。それが春である。見事です。(働猫)

今回の句会における最高得点句である。
さもありなんという感じである。良句。


蕾桜の公園集う妊婦たち 風呂山洋三
△蕾と生まれ来るものとの対比に注目したものと思う。しかし自分にはその光景への悪意が感じられる。「集う」「妊婦」という硬質で共感を排した語選びに、客観視あるいは恐怖を感じるのである。これは、自分ならば避けたい情景であるという主観的な読みかもしれないが、おそらく作者にもそうした気持ちはあるはずである。(働猫)

いや怖いよね。こんなところに居合わせたくない。


窓開けておく春が入ってきた 風呂山洋三
△どこかで見たような句である。作者自身の過去作の再投句なのであれば、佳句と思うが、今回は判断できず保留。(働猫)

「窓あけて窓いつぱいの春」(山頭火)
「障子あけて置く海も暮れ切る」(放哉)
辺りが私の念頭にあったように思う。
いわゆる類想類句というものだろう。
これについては最後に述べたいと思う。


独り言大きくなって鰆のうまい夜 風呂山洋三
△「うまいうまい」という独り言だろうか。木の芽時という感じがする。(働猫)

我が家では魚を食べていると猫が鳴くので幸いにも独り言にはならない。
救いである。


知らない子から石をもらう春の昼 風呂山洋三
△のちの石売りである。無能の人とならぬよう祈るばかりだ。(働猫)

穏やかな春の公園での風景であろう。
やはり風呂山はこうした幸福の景を切り取るのがうまい。


食うためだけの煤けた電車だ 小笠原玉虫
△廃棄された車両を再利用した飲食店なのだろう。多くの場合、そうした店舗は店主が鉄道マニアであったり、もと鉄道職員であったりするものだ。つまり、その店舗は厳密には「食うためだけ」のものではない。鉄道への熱い思いやノスタルジアが表現されたものである。そこに「食うためだけ」に訪れたのだとしたら、とんだ場違いであり、気まずい思いもすることになる。以後気を付けるべきであろう。(働猫)

北海道江別市の大麻駅前に客車を店舗として使った「自由人舎 時館」というカレー屋があった。今は移転してしまったようだ。
久しぶりに食べたくなった。
大麻は「おおあさ」と読む。北海道の大スター大泉洋の出身地である。


かなしい辛いものを食べる 小笠原玉虫
△辛さは痛みと同じ刺激であるので、これは全く合理的な行動である。精神の疲労が蓄積したときには、運動し肉体を疲労させるとバランスがとれる。同様に、悲しみで心が傷ついたならば、肉体を傷つけるため辛い物を摂取することで心身のバランスをとることができるだろう。まったくもって普通の行動。合理的な行動である。(働猫)

やはりカレーか。
スープカレーでは、「アジアンスープカリー べす」がおすすめです。
札幌にお越しの際はぜひ。


生きて帰ったばかがねむった 小笠原玉虫
△音が気持ちのいい句である。「ばか」への愛情も感じられる。(働猫)

寅さんかな。
寅さん観たことないけど。
当時の句評で述べているように、音が気持ちいい。
「~った」「~った」の連続が、まるでスキップでもしながら帰ってきたように感じられて、「ばか」という語とよく共鳴している。
実際には深刻な場面だったのかもしれないが、軽妙な音楽性を備えた句である。


傘を盗られて春雨がやさしい 小笠原玉虫
△失わなければ気づけないやさしさであった。作者の人の好さが垣間見える。(働猫)

小学校低学年のころ、学校の玄関で友人の腕を傘の柄でひっかけて引っ張って遊んでいたところ、それを見ていた用務員のおじさんにおもいっきりびんたされたことがある。何が人の怒りを買うものか、まるでわからないものだ。
昔は理不尽に怒る大人がかなりいたものだが、どうにか健やかに育つことができた。
これは働猫さんの資質に負うところが大きかろう。環境や教育の良し悪しではあるまい。
脱線した。
傘盗む者に災いあれ。


やめろ沈丁花頭頭がいたい 小笠原玉虫
△「にいさん頭が痛いよ」と言えばナイトヘッドであるが、なんとなく沈丁花による寄生を想像した。「バオー来訪者」とか「寄生獣」の世界ですね。「頭頭」と二回言ってしまうあたりに作者の混乱した状況が見て取れる。(働猫)

「頭頭」は意図的ではなかったのだったっけ。
意図的でないにせよ、二度繰り返すことで頭が二つあるような不安や奇異を表現できているように思う。


春の雨飲んで別れ 十月水名
△「春の雨」で切れるのかと思って読んだが、それでは送別会などの当り前の情景である。そこで、「雨を飲んで別れる」ととり、雨の中、涙を雨に隠して別れていく二人を想像することにした。(働猫)

二股に分かれていく川の流れともとれる。
今はその読みが気に入っている。
山頭火の「濁れる水の流れつつ澄む」を思わせ、また、自然との合一を感じる。


あまったあたまがチューリップ 十月水名
△芸人の一発ギャグのようだ。流行るといいですね。(働猫)

投げ出し感があってよいと思う。
言い方次第で流行ると思う。


魚類図鑑ひらくぶらんこ 十月水名
△ぶらんこに揺られながら、海原を揺蕩う自身を想像しているのか。鉄塊の過去の句会でもあったが、「図鑑」と「子供」のとり合わせは、放置や孤独を想起して辛い。(働猫)

辛いのは私自身が図鑑子だったからであろう。
図鑑を見ながら絵を描くのが好きだった。
蛇やとかげのような爬虫類が特に描きやすかったな。
誰も自分を傷つけない、自分も誰も傷つけない、そんな穏やかな時間を図鑑は与えてくれたものだ。


狂っても気付いてくれない野原 十月水名
△誰もいない森で倒れた木は音をだすのか?「音」として認識するものがいないときに、果たしてその音は存在するのか。この問いかけに似た問題をこの句は提起している。誰も気づいてくれない狂気とは、果たして狂気と言えるのだろうか?その狂気を「異常」として認識する他者が存在しない「野原」で、「狂気」は存在し得るのだろうか?そう考えたとき、この句では、「狂っても」と判断しているのは作者自身である。狂気を自称するのは、満たされない承認欲求の表れであろうか。(働猫)

ワオ……禅……。


グーよりチョキに似て交尾 十月水名
△松葉崩しであろう。(働猫)

当時の句会では玉虫と句評がかぶってしまったが、松葉崩し以外の何物でもあるまい。じゃあ「グー」はなんだろうか。対面座位であろうか。


寝付けぬ面した女を喰らう 馬場古戸暢
△ハードボイルドである。(働猫)

妖怪的でもある。天狗であろうか。


つついてくる女の指先の懐かしい白さ 馬場古戸暢
△かつて関係のあった女なのだろう。実にいやらしい句である。いちゃいちゃは見えないところでやってほしい。(働猫)

いちゃいちゃしやがって。


とんび鳴くこの身に夜が傾く 馬場古戸暢
○夜に聞こえてくるとびの声は非常に不気味なものである。「この身に」鳴くということは、とびに餌として認識され、狙われているということである。通常とびが人間を襲うことはない。作者はとびの捕食対象となるほど弱っているということだろう。死にかけているのかもしれない。宮沢賢治の「眼にて云う」のような状態なのかもしれない。今夜が山か。(働猫)

ぐらり、という音が聞こえてきそうな良句である。
今見るとこちらを特選にとるように思う。
不安と痛みを抱えた夜が、主観的表現を用いずに過不足なく表現されている。


おばあちゃんの鼻唄も青空 馬場古戸暢
△「も」がうまくとれなかった。しかし「青空」をブルーハーツの曲と考えるとすっきりした。ヒロトも50歳になった。鼻歌がブルーハーツのおばあちゃんだって存在するだろう。「ふふふんふんふふふふふうん、ふっふふふふふふふふふー、ふんふふふんーふー、ふふーふーふふふー」(働猫)

ブルーハーツのストレート過ぎる歌詞が、それゆえに現代に生き続けるように、良句とは得てしてそうしたド直球なものなのかもしれない。


煮詰まる夜が唾液がぬるい 馬場古戸暢
△気まずい沈黙が続く夜なのだろう。飲み込むつばもぬるくのどを流れる。ペッティングの句ともとれなくはないが、そうだとしたら気持ち悪い描写なのでいやです。(働猫)

やっぱりちょっと気持ち悪いな。


古いドア達の鳴き声 中筋祖啓
△1「古いドアたちの鳴き声」と30「古いママチャリの鳴き声」とを最初と最後に配置したところに今回の編集担当のこだわり(椎名林檎のアルバムのような)を感じる。これらの「古い~鳴き声」句は同じ作者のものかと思う。冬の間雪に閉ざされていたドア、ママチャリの錆びた音を表しているのだろう。この鳴き声は冬の終わりを告げるものであり、これらの句は紛れもなく春の句であると言える。(働猫)

5句のうち2句、似たような句で投句するのが祖啓の尋常ならざるところである。「原始の眼」で見たとき、「ママチャリ」と「ドア達」の両方の声が捨てがたく新鮮に思えたのだろう。


自信が亡い 中筋祖啓
△最上級ということであろうか。(働猫)

困っちゃうよな。


サイコロの自立 中筋祖啓
△サイコロは投げられるものであり、ついに自立することはないだろう。つまりこれは比喩ととるのが正しい。投げられ、据えられる受動的な存在をサイコロに喩えているのだ。春の投句であることから、思春期における自我の目覚め、あるいは新しい環境への旅立ちを表現しているのであろう。(働猫)

これも禅である。たぶん。


好きな食べ物はチョコだ 中筋祖啓
●これはいただけない。チョコはうまいかもしれないが。(働猫)

困っちゃうよな。
祖啓は間違いなく天才であるが、このシリーズに入ったときの祖啓はいただけない。


古いママチャリの鳴き声 中筋祖啓
△1「古いドアたちの鳴き声」と30「古いママチャリの鳴き声」とを最初と最後に配置したところに今回の編集担当のこだわり(椎名林檎のアルバムのような)を感じる。これらの「古い~鳴き声」句は同じ作者のものかと思う。冬の間雪に閉ざされていたドア、ママチャリの錆びた音を表しているのだろう。この鳴き声は冬の終わりを告げるものであり、これらの句は紛れもなく春の句であると言える。(働猫)

同じ句評を「~ドアたち~」にも付した。
思えばこれは祖啓なりの「推敲」であったのかもしれない。
祖啓が月の下で「ママチャリがよいか、ドアたちがよいか」と悩むのであれば、私は及ばずながらも韓愈として馬を並べる友でありたい。



*     *     *



以下五句がこの回の私の投句。
Ora Orade Shitori Egumo(だれもわたしをゆるして呉れない) 畠働猫
また君のいない朝だ 畠働猫
豚が豚殺して狼に仕事がない 畠働猫
花の色帯びて硬い雪である 畠働猫
苺くれたあの日の兄に金送る 畠働猫
「花の色~」は桜の根元の残雪を詠んだものだが、北海道以外では見られない景であったかもしれない。
「Ora Orade~」は宮沢賢治「永訣の朝」中のとし子の言葉であるが、それを架空の言語として翻訳したような形を狙った。

「Ora」⇒「人間、みんな」
(不特定の人物を表す)
「Orade」⇒「私」
(不特定の人物「Ora」に語り手の所有を表す接尾語「-de」がついた形)
「Shitori」⇒「許し、光、神、祝福」
(「shi」は罪を表し、「tori」はそれを祓う意を持つ)
「egumo」⇒「くれない」
(「ego」(~する)の受動態「egu」に、否定を表す接尾語「-mo」がついた形)

という感じである。今考えた。



*     *     *



類句類想について。
有限の世界に生きる以上、それはあってあたりまえである。
大体において、およそこの世の中で詠まれるべきことなど、ほとんどすべて、すでに誰かが句にしてしまっているのではないか。
そう思う。
句材となる鉱脈は初期のガリンペイロが掘り尽くしてしまった。
したがって後世を生きる我々は、句材の切り口、言葉の研磨、すなわち表現方法によってしのぎを削らなくてはならない。
咳の夜の寂寥を詠むのに「せきをしてもひとり」という方法はもう選択できないのだ。
その意味で私たち表現者は、残されたわずかな美しい資源を奪い合う修羅である。
そして奪うのであれば、誰よりも言葉を磨き、美しく輝かせなくてはならない。
類想はあっても類句であってはならない。
自由律俳句が定型の軛を逃れた理由もその辺りに求められるように思う。



次回は、「鉄塊」を読む〔23〕。



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