2016-05-15

自由律俳句を読む 137 「鉄塊」を読む〔23〕 畠 働猫



自由律俳句を読む 137
「鉄塊」を読む23

畠 働猫


今回も「鉄塊」の句会に投句された作品を鑑賞する。
第二十四回(20145月)から。

この回は私が編集担当で、りんこ氏をゲストとして句会を持った。
招待のりんこ氏を含めても参加者は5名であり、これまでの回と比べても最も少ない人数での句会となった。
りんこ氏とは、Twitterweb句会を通じて知り合うことになったのだが、のちに私の大学時代の友人が結婚した男性の妹であることがわかった。
北海道は広いようで狭いものだ。
りんこ氏の作品(自由律俳句、短歌、随筆など)には、純粋さや瑞々しい感性が溢れており、それをどこか羞恥心にも似たものと私は感じている。
表現者は多かれ少なかれ繊細さを抱えているものと思うが、それを私とは違う切り口で、しかも好ましい形で表現する人である。
その表現方法がどのように変遷したとしても、注目し続けたい存在であり、いずれその自由律俳句について、この記事でまとめたいとも思う。

文頭に記号がある部分は当時の句会での自評の再掲である。
記号の意味は「◎ 特選」「○ 並選」「● 逆選」「△ 評のみ」。



◎第二十四回(20145月)より

居間の畳へ雫垂らす髪も春か 馬場古戸暢
○静かで色っぽい句である。「髪も春か」という表現から、詠み手にとって春とは豊潤で雫のしたたる季節なのだろう。また、洗い髪をそのままに居間に移動できるのは冬の寒さが去ったことを表している。(働猫)

しっとりとしたよい句である。
美しい女性の洗い髪を思う。



真昼の月あり発泡酒のみきれぬ 馬場古戸暢
△いつから飲み続けていたのか。さすがにもういらなくなったのだろう。月とともに意識も消えゆこうとしているのだろう。(働猫)

昨夜始まった酒宴が昼まで続いているのだろうと当時読んでいたのだが、発泡酒でそんなに長く飲めるものかと疑問を持った。
とすれば、昼間から飲み始めたところか。
しかし昼から飲める喜びはここにはない。
「のみきれぬ」のは身体の衰えか、心の疲弊か。



眼鏡きえた夜の君の線だけみゆる 馬場古戸暢
△自分は眼鏡がないとほとんど何も見えない。だから状況はよくわかる。線だけ見る世界は美醜が判別し辛く割と幸福かもしれないと思ったりする。(働猫)

私は眼鏡を外すと超絶美形な素顔を晒すことになる。
(働猫さんは少女漫画宇宙からこの腐敗した世界に堕とされたGod’s childである。)
しかしその素顔のまま、愛する人の顔を見ることはできないのである。
この句はそのジレンマを思い起こさせた。
古戸暢もまたGod’s childなのかもしれない。



菜の花ここにも霧は晴れた 馬場古戸暢
○菜の花の発見と霧が晴れたのとどちらが先かはわからないが、非常にドラマチックな瞬間を切り取ったものと思う。菜の花がまず見えて、それから霧が晴れた。そうして初めて自分が一面の菜の花畑の中にいることがわかった。こんな風に読むのが好みだが、果たしてそんなドラマチックなことが起こりうるものだろうか。想像の景色、あるいは「菜の花」や「霧」を隠喩として読むこともできるか。(働猫)

美しい句である。
隠喩として読むならば、「霧」は不安や悲しみであり、「菜の花」は美しい世界の発見であろう。目が開かれた瞬間、末期の眼の発現であったかもしれない。



君の腹の遠く鳴っとる 馬場古戸暢
△冷戦状態の二人であろうか。言葉もなく姿も見えないが生きていることだけは伝わっている。(働猫)

微かな音を強調することで静寂を表現する伝統的技巧だ。
ただここで詠まれている音は「腹(の音)」。
そばにいてさえ聞こえるかどうかわからぬ微かな音である。
それを遠く聞いている。
常人離れした聴力、あるいは爆音を立てる腹の虫、そう読むこともできよう。
しかしそうではなく、やはりここではこの音を、耳ではなく心で感応したものととらえるべきであろう。
禅である。
遠くにいながらにして、なおも相手の状況を知る。
これこそが愛であろう。愛とは他者を認めること、関心を持つことである。
その究極の状態が、この句に表現されているに違いない。
私にはわかる。にっこり(拈華微笑)。



衝動買いした服のセンスを春の憂いと呼べ 風呂山洋三
△春の陽気に浮かれてしまって失敗した経験は自分にもある。捨てられない春の憂いはタンスの肥やしになっている。(働猫)

あまりにも共感してしまう内容だが、言い尽してしまって「あるある」になってはいないかと思う。



フラミンゴことごとく顔を挿す 風呂山洋三
△無数のフラミンゴの群れが一斉に餌を求めて水面に顔を挿し込んでいるところであろう。舞台は広大なアフリカ大陸か。かつては、「わくわく動物ランド」や「野生の王国」のような良質な動物番組があった。詠み手の意図とは違うのだろうが、この句はそれらのテレビ番組を毎週楽しみに観ていた幼い記憶を刺激し、失ったもの(団欒や無邪気な学校生活など)を思わせ胸苦しくさせる。(働猫)

私にとっていつまでが幸福であったのだろう。
失われたものは失われたがゆえにまばゆく、美しいのだろう。



深夜の窓辺に立つ顔の無い女だ 風呂山洋三
△オカルト句であろうか。そうだとするとひねりがなさすぎるように思う。(働猫)

以前紹介した古戸暢の句に、「橋の上の夜釣りの女か」がある。
(「鉄塊を読む17http://weekly-haiku.blogspot.jp/2016/04/13117.html
同じオカルト句(私が勝手にそう判断しているのだが)であっても、このように想像の余地がなければ心に残らない。
「深夜」「窓辺」「顔の無い」「女」すべてが恐怖を覚えさせる要素でありながら、それらを細かく言い尽してしまっているため、想像の余地がない。
要素を並べてしまっているがゆえに、恐怖の根源となる正体不明性を喪失してしまっているのである。



赤いチューリップ庭のあった証である 風呂山洋三
△チューリップは自生するものだろうか。という疑問から、この赤いチューリップはだれかが植えたものとしてしか読めなくなった。だれかが植えて、そしてその年の内に庭はなくなってしまった。庭は突然無くなり、まだ日がたっていないのだ。火事だろうか。大規模な災害だろうか。戦場となり爆撃を受けたのか。赤いチューリップはそこで命を落とした子供の象徴のようでひどく哀れである。(働猫)

2014年当時で考えると、イスラエルのガザ侵攻、シリア内戦、クリミア危機などが念頭にあったのではないかと思う。
あるいは震災後に芽吹いたチューリップであったものか。
庭の喪失は、家族、団欒の喪失である。
そしてチューリップだけが証であるように、詠者はまったくの他人、無縁の存在としてその景色を見ている。
失った者にも失わずに済んだ者にも等しく時は流れる。
ときに残酷でもあり、ときに救いでもあるその時の流れを、生者は否応なく見つめることになる。
チューリップの長閑やかな可憐さが、かえって残酷に句を彩っている。



黙って炊き出しを啜るこれが戦争体験者だ 風呂山洋三
●いつどこでだれの視点で詠まれているのかわからない。そのためあやふやな雰囲気句になってしまっているように思う。「戦争」は文字通り戦争なのか、大規模災害などの隠喩なのか。過去の太平洋戦争なのか、現在の他国における紛争のことなのか。詠み手の立ち位置や覚悟がはっきりしないため、表層的な句になってしまっているように思う。(働猫)

太平洋戦争を経験した世代が、被災しても泣き言を言わずに炊き出しをすすっている。そんな景を詠んだものかもしれないが、どうにも感動のポイントがずれているようにも思うし、言い尽しているのに何も伝わってこない、どうにももどかしい句である。



またひとが死んだ線路脇でひなげしが揺れる 小笠原玉虫
△他者の死に無関心に生活を続けるという句は新鮮ではないが「ひなげし」がよい。虞美人草の別名は自死した虞姫に由来する。それを象徴的に配しているのだろう。(働猫)

力は山を抜き 気は世を蓋う
時に利あらずして 騅逝かず
騅の逝かざるを奈何せん
虞や虞や 汝を奈何せん

初めて諳んじた漢詩が、この垓下の歌である。
本宮ひろ志の「赤龍王」で憶えた。
滅びゆく者の悲哀と愚かさ、愛情が綯い交ぜとなった美しい詩であると思う。
覇王項羽が追い詰められ、滅びに突き進んでゆく姿と、この句で詠まれているおそらくは自死者とが重なる。巧妙な配置である。



熱いマスクひき剥がしじっと夜を睨んでいる 小笠原玉虫
△咳の夜に運命を憎む様子であろうか。句に熱は感じる。しかしやや冗長である。語選び次第でよりぐっとくる句になるだろう。(働猫)

景はよい。
こうした苦しみはおそらく多くの人が経験したものであろうかと思う。
「熱いマスク」「夜を睨む」辺りがどちらかにしぼるべきであったかと思う。
風呂山の「顔の無い女」もそうであるが、状況をすべて報告されてしまうと読む者は何も想像できない。
それは呈示であって開示ではない。
句は開くべきである。



まだ生きているパンジーを引き抜く自称庭好きよお前は醜い 小笠原玉虫
△これは語りすぎであろう。詠み手の意図が過不足なく伝わりそれ以上も以下もない。(働猫)

これもまた上記の句と同じく語り過ぎである。
わかりやすい言葉で視聴者を誘導しようとするコメンテーターのように、事実の解釈まで押しつけてしまっている。



街灯を壊して歩くガラスの星座踏みしめてゆく 小笠原玉虫
△やっていることは器物損壊で完全に犯罪なのだが、それをなんだか美しく表現してしまっているところに酒の力を感じる。(働猫)

「ガラスの星座」には詩情を感じる。



この街では珍しいきちがいが泣いてる雨降り続ける 小笠原玉虫
△「きちがい」を言葉として使いたかったのだろうと思うが、あまり効果的ではないように思う。おそらくは自分自身を客観視して「きちがい」と表現しているのだろう。その自分の「熱」のようなものを許容してくれない「この街」の冷たさ、そこで感じる疎外感、そういったものを表現したいのだと想像することはできるのだが。(働猫)

この回の玉虫の句にはたしかに「熱」を感じる。
表現したいという欲求が高まっていた時期だったのだろうか。
その溢れ出る情緒がいい加減に抑えられたとき、美しい句が生み出されるのだが、この回ではバランスの悪さが目立つ。
同じ景を現在の玉虫が詠めば、また違った句になるようにも思う



父の知らないパンが美味い りんこ
△背徳感と無邪気さが同居した句である。内緒で買ったパンをいたずらな笑みで食べるのだろう。(働猫)

「父の知らないパン」が実にいい。最近の散文、エッセイでも感じることだが、語選びのセンスが非常によい。
天然という言葉はあまり使いたくないが、これらの語選びがどの程度意識的に行われているものか不明である。
ふわりと飛び込んでかすかな熱を放つような、心の奥にしまいこんだ大切なものや忘れかけていたものを刺激するような言葉。
そんな言葉をどれだけ意識的に選べるものだろう。
末期の眼や原始の眼とも違う、このりんこの眼についても何か私は名前を考えたい。
俳人ではあまりいない。歌人の雪舟えまや兵庫ユカにも時折感じる視座である。



マグカップ恥ずかしいほど割れて目の前に落ちる りんこ
○この羞恥心の表れ方が詠み手の特徴の一つであり、興味深いところだ。この思春期のような過敏さを伴う自意識。無垢や純粋さの表れのようでもあり、微笑ましくも思う。(働猫)

そうこの羞恥なのだ。
歳を重ねて人が失うものの一つが羞恥であろう。
それを今なお持ち得るとすれば、それは句材であり句風となるだろう。
孤独や孤高、不幸を嘆く自由律俳人は溢れているが、羞恥を詠む俳人はあまりいないように思う。
非常に新鮮だ。



電気消す派のきみの骨白かった りんこ
◎「電気消す派」という表現はなかなか色っぽい。性癖はさまざまであるが、「電気消す派」と「電気点けたまま派」とで明確に二分することができる。「消す派」は、視覚を制限することによってより興奮するというタイプの場合もあるだろうが、やはり一般的には羞恥心の表れと考えるべきであろう。そんな羞恥心の持ち主だった人が、今はその骨の白さまで露わにされてしまっている。そのことが故人への憐憫として表れ、さらにはかつての触れ合いや言葉なども想起させるのだろう。物語が凝縮された句である。自分は相手に合わせる派です。どのみち眼鏡はずしたら線しか見えないのでね。(働猫)

「電気消す派」にはやられた。すばらしい。



トイレに流した薬も効いてきて月おぼろ りんこ
△「トイレに流した薬」だけならば、苦い薬を嫌ってこっそり流している子供を想像できるのだが、「効いてきて」とあるからこの句は途端に不穏となる。「トイレに流した」ものを薬ではない別のものとする解釈も可能であるが、「流した」のも「効いてきて」いるのも同じ薬だとすれば、一度体内に取り入れた薬をトイレに流している状況ととれる。例えば、過剰摂取した睡眠薬をトイレで吐いている、とか。「月おぼろ」は朦朧とした意識を表しているだろう。(働猫)

ほかの句から読める無邪気さや明るさを思えば、上記の解釈も前者、つまり子供のころの句と考えたい。
しかし、ここではあえて後者の解釈をとりたい。
りんこの闇の面が表れた句である。
心に闇を持たない者の言葉に人は惹かれることはない。
りんこにの心にはやはり深い闇が揺蕩っているのである。
その闇が羞恥の源泉になっているのかもしれない。
その闇が、様々な屈折を経て外に表されたとき、人の心を温めるような言葉に変換される。これがりんこを稀有の存在としている。
この人もまた修羅である。



素晴らしいおんなだ墓石色のワンピース着て笑む りんこ
△放哉の「すばらしい乳房だ蚊が居る」を思わせる始まりである。「墓石色」という表現には「おんな」への悪意が感じられる。「素晴らしいおんな」という賞賛と「墓石色」という揶揄とで、相手に対するアンビバレントな思いを表現しているのだろう。 (働猫)

闇が深い。



*     *     *



以下五句がこの回の私の投句。
待つ夜の耳を洗う 畠働猫
花雨に濡れて眼鏡はずすべき夜 畠働猫
さよなら揺れてカンパニュラ夜香る 畠働猫
桜咲くかしら痩せた手をとる 畠働猫
年輪を重ねて夜を叫ばず眠る 畠働猫

「桜咲くかしら痩せた手をとる」はこの回で最高得点句となった。
春は昔から好きな季節ではなかったが、大切な人を亡くしたことが、花の季節をさらに憂鬱なものに変えてしまった。
そして何度繰り返しても、死に近い人の前で私は言葉をうまく使えない。
寄り添うこともできない。
後悔ばかりを重ねて生きている。
生きている限り、それは続くのだろう。



次回は、「鉄塊」を読む〔24〕。


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