【みみず・ぶっくすBOOKS】第6回
『夏目漱石句集』
小津夜景
このシリーズを三回休載して、しばらく日本に行ってきた。
三週間ほど東京神楽坂にあるマンションに住んでいたのだが、このたびの滞在でいちばんびっくりしたのは夏目漱石の肖像写真を一日も欠かさず目にしたことだ。神楽坂商店街のフリーペーパー、歴史案内の看板、電車の吊り広告、ミュージアムのポスター、書店の新刊案内、根岸の子規庵(俳人の中村安伸氏の案内で散策した)と町中至るところで漱石を見かけるのである。もしかして没後100年と関係している? うん、そうかもしれない。でもこれだけ露出が多いということは、きっと元々のファンの数も相当いるのだろう。
かくいう自分も漱石は大好きで、部屋にある蔵書(大変貧弱な)の半分以上が漱石関係の本だったこともあるくらいの重症患者だ。フランスの本屋でも漱石は平積み率が高く、その光景を見るたびうふふと嬉しくなる。
ということで今週は、彼の書画句をとてもコンパクトに堪能できる『夏目漱石句集』をとりあげたい。わずか138頁の本文に21の書、32の画、134の句が収録され、そのほか漱石愛用の落款も5種類楽しむことができる優れものの一冊だ。
ヴィヴィッド・オレンジの表紙。価格は8€=1000円。 |
巻末には注釈があり、岩波書店『漱石全集』を底本とした書画の制作年と解説および俳句の制作番号、制作年、季節などが記されている。また大いに感動してしまったのは、元岩波書店編集者の秋山豊に序文を依頼していること。これだけでも本書の気合いの入り方がわかって嬉しい限りである。
家鴨三羽、1903年もしくは1904年 |
畑の花、1904年 |
南画、1914年 |
木陰の釣り人、1913年 |
「勅額の霞みて松の間かな」
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松に縁取られた道、1914年 |
左「有る程の菊抛げ入れよ棺の中」
右「逝く人に留まる人に来る雁」
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「菫程な(の?)小さき人に生れたし」
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「蚊ばしらや断食堂の夕暮に」 |
「春の海に橋を懸けたり五大堂」 |
と、こんな感じの本である。すごく読み易そうでしょう? 実際この本は書店にゆくたびに見かけるので漱石句集の定番なのだとおもう(漱石の句集は何種類も出版されている)。ついでに、せっかくなので本書の選句がどのようなものか全134句を列挙しておく(句はブログ「夏目漱石俳句集」からの引用)。
18 吾恋は闇夜に似たる月夜かな
24 秋風と共に生へしか初白髪
36 聖人の生れ代りか桐の花
44 弦音にほたりと落る椿かな
49 菜の花の中に小川のうねりかな
50 風に乗って軽くのし行く燕かな
116 五重の塔吹き上げられて落葉かな
124 冬の山人通ふとも見えざりき
171 思ふ事只一筋に乙鳥かな
212 秋の山静かに雲の通りけり
295 行秋や消えなんとして残る雪
302 星一つ見えて寐られぬ霜夜哉
307 四壁立つらんぷ許りの寒哉
410 初冬や竹切る山の鉈の音
469 筆の毛の水一滴を氷りけり
498 叩かれて昼の蚊を吐く木魚哉
506 曼珠沙花あつけらかんと道の端
531 東風や吹く待つとし聞かば今帰り来ん
548 一つ家のひそかに雪に埋れけり
551 天と地の打ち解けりな初霞
716 宵々の窓ほのあかし山焼く火
753 春の江の開いて遠し寺の塔
764 端然と恋をして居る雛かな
776 限りなき春の風なり馬の上
778 古ぼけた江戸錦絵や春の雨
785 永き日やあくびうつして分れ行く
792 窓低し菜の花明り夕曇り
800 一つすうと座敷を抜る蛍かな
801 竹四五竿をりをり光る蛍かな
848 淋しくもまた夕顔のさかりかな
904 長けれど何の糸瓜とさがりけり
933 人に言へぬ願の糸の乱れかな
936 忘れしか知らぬ顔して畠打つ
969 凩や海に夕日を吹き落す
1054 餅を切る庖丁鈍し古暦
1062 ひたひたと藻草刈るなり春の水
1066 人に死し鶴に生れて冴返る
1098 菫程な小さき人に生れたし
1116 泳ぎ上がり河童驚く暑かな
1240 仏性は白き桔梗にこそあらめ
1260 今日ぞ知る秋をしきりに降りしきる
1263 渋柿やあかの他人であるからは
1269 秋風や棚に上げたる古かばん
1273 真夜中は淋しからうに御月様
1321 水仙の花鼻かぜの枕元
1327 行く年や猫うづくまる膝の上
1328 焚かんとす枯葉にまじる霰哉
1340 旅にして申訳なく暮るゝ年
1354 僧帰る竹の裡こそ寒からめ
1388 長かれと夜すがら語る二人かな
1408 病妻の閨に灯ともし暮るゝ秋
1420 秋の日のつれなく見えし別かな
1443 灰色の空低れかゝる枯野哉
1504 光琳の屏風に咲くや福寿草
1547 夜汽車より白きを梅と推しけり
1548 死して名なき人のみ住んで梅の花
1584 さらさらと衣を鳴らして梅見哉
1597 灯もつけず雨戸も引かず梅の花
1641 一輪を雪中梅と名けけり
1683 秋雨や杉の枯葉をくべる音
1694 顔洗ふ盥に立つや秋の影
1727 暗室や心得たりときりぎりす
1728 化学とは花火を造る術ならん
1730 剥製の鵙鳴かなくに昼淋し
1772 安々と海鼠の如き子を生めり
1783 新しき畳に寐たり宵の春
1789 秋風の一人をふくや海の上
1793 赤き日の海に落込む暑かな
1822 三階に独り寐に行く寒かな
1823 句あるべくも花なき国に客となり
1824 筒袖や秋の柩にしたがはず
1825 手向くべき線香もなくて暮の秋
1827 きりぎりすの昔を忍び帰るべし
1828 招かざる薄に帰り来る人ぞ
1870 秋風のしきりに吹くや古榎
1872 朝貌の葉影に猫の眼玉かな
1924 加茂にわたす橋の多さよ春の風
1928 恋猫の眼ばかりに痩せにけり
1971 春の水岩ヲ抱イテ流レケリ
1972 花落チテ砕ケシ影ト流レケリ
1995 朝顔の今や咲くらん空の色
1996 立秋の風に光るよ蜘蛛の糸
2045 二人して雛にかしづく楽しさよ
2081 青梅や空しき籠に雨の糸
2084 まのあたり精霊来たり筆の先
2085 此の下に稲妻起る宵あらん
2106 なつかしき土の臭や松の秋
2115 独居や思ふ事なき三ケ日
2117 花びらに風薫りては散らんとす
2123 別るゝや夢一筋の天の川
2124 秋の江に打ち込む杭の響かな
2125 秋風や唐紅の咽喉仏
2126 秋晴に病間あるや髭を剃る
2127 秋の空浅黄に澄めり杉に斧
2132 風流の昔恋しき紙衣かな
2135 骨立を吹けば疾む身に野分かな
2140 蜻蛉の夢や幾度杭の先
2142 取り留むる命も細き薄かな
2144 虫遠近病む夜ぞ静なる心
2145 余所心三味聞きゐればそゞろ寒
2148 生き返るわれ嬉しさよ菊の秋
2155 生きて仰ぐ空の高さよ赤蜻蛉
2157 一山や秋色々の竹の色
2161 大切に秋を守れと去りにけり
2164 ともし置いて室明き夜の長かな
2204 逝く人に留まる人に来る雁
2214 肩に来て人懐かしや赤蜻蛉
2222 たゞ一羽来る夜ありけり月の雁
2242 有る程の菊抛げ入れよ棺の中
2244 病んで夢む天の川より出水かな
2245 風に聞け何れか先に散る木の葉
2247 冷やかな脈を護りぬ夜明方
2249 迎火を焚いて誰待つ絽の羽織
2250 朝寒や生きたる骨を動かさず
2261 腸に春滴るや粥の味
2270 稲妻に近くて眠り安からず
2271 灯を消せば涼しき星や窓に入る
2290 錦画や壁に寂びたる江戸の春
2306 琴作る桐の香や春の雨
2319 我一人行く野の末や秋の空
2320 内陣に仏の光る寒哉
2324 同じ橋三たび渡りぬ春の宵
2330 世に遠き心ひまある日永哉
2350 降るとしも見えぬに花の雫哉
2377 芝草や陽炎ふひまを犬の夢
2378 早蕨の拳伸び行く日永哉
2384 魚の影底にしばしば春の水
2434 秋風の聞えぬ土に埋めてやりぬ
2447 竹一本葉四五枚に冬近し
2448 女の子十になりけり梅の花
2475 春雨や身をすり寄せて一つ傘
2484 秋立つや一巻の書の読み残し
2491 風呂吹きや頭の丸き影二つ
2517 明けたかと思ふ夜長の月あかり
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