2016-05-22

自由律俳句を読む 138 「鉄塊」を読む〔24〕 畠働猫


自由律俳句を読む 138
「鉄塊」を読む24

畠 働猫


今回も「鉄塊」の句会に投句された作品を鑑賞する。
第二十五回(20146月)から。

この回はうぐいす氏をゲストに句会が持たれた。
うぐいす氏は、現在は作句の際、吉村一音の俳号で活動している。
前回のりんこ氏は、思春期特有の恥じらいや瑞々しさを特徴としていたが、それとは対照的に、うぐいす氏の句は、しっとりとして成熟した抒情が特徴であるように思う。また、すべての句を拝見しているわけではないのでこれは印象に過ぎないのだが、「弱さ」を詠んだ句が少ないように思う。そこに芯の強さ、しなやかさを感じる。


文頭に記号がある部分は当時の句会での自評の再掲である。
記号の意味は「◎ 特選」「○ 並選」「● 逆選」「△ 評のみ」。



◎第二十五回(20146月)より

きのうのカレーぬくめる台所に窓がない うぐいす
△暑さが伝わってくる。カレーの粘性とよどんだ空気とが同じイメージとして相乗的に表現されている。(働猫)

「ぬくめる」という語によどみが強く表れている。
新しい料理をするのでなく、また窓もない世界は停滞し閉鎖的である。
二日目のカレーの美味しさを詠んだ句は数多ありそうだが、そう詠まなかった点がよい。



本音言わぬ女の唇が薄い うぐいす
△薄幸そうです。木村多江いいですよね。(働猫)

唇を引き結び、暗い目をして黙っている女の顔が見える。
鏡を見ている詠者自身なのか、それとも別にそうした対象があったものか。



よく働いた夜の歯磨き粉たっぷり うぐいす
△ささやかなご褒美みたいな言い方だけど、別にうれしくないよね。歯医者さんも歯磨き粉は少量で泡立てない方がよく磨けると言っています。あ、不快なものを口に含むお仕事でしょうか……。(働猫)

金曜の夜という感じがする。拙句「待つ夜の耳を洗う」と同じ状況であれば、婉曲なバレ句ともとれる。



約束は昨日だったビビデバビデブウ うぐいす
○「やくそくーは、きのうだーった、ビビデバビデブー」と読むのが正しかろうか。しかし魔法の言葉に頼るほど切迫した状況ではないのだろう。のんきな印象である。ただ、舞踏会の翌日に来た魔女が言っていると思うとテヘペロではすまない。スケジュール管理のまずさを十分に反省すべきである。(働猫)

これは素晴らしい句。
音楽性に富み、なんとも微笑ましい。
ちびまるこ世界の馬鹿馬鹿しさに通ずるものである。



会えなくなる人の目玉かわいている うぐいす
◎眼を見開いたままの死者というのは非常に凄惨な光景である。今まさに恋人の命を奪い、茫然としている情景を思い浮かべた。凄惨ではあるがそうした情景には愛と美しさをも感じてしまうのだ。(働猫)

これは紛れもなく修羅の句である。悲しみや苦しみの中にあっても、そこから句を拾わずにはおれない。業を感じる。



不幸自慢聞くふりをして見やる紫陽花 小笠原玉虫
△「不幸自慢」と表現した時点で、もう聞く気がないことはわかるため「聞くふり」は余分か。(働猫)

あるいは「聞くふりをして見やる紫陽花」でもよかったか。
聞く気のなかったもの、その対象を読者に委ねることで、句を開くことができる。
ただここではそれを委ねたくない、「不幸自慢」であることを伝えたいという作者の熱が句を閉じたのだろう。



にわかに苛立って鯖を斬首す 小笠原玉虫
△料理は愛情と勢いですよね。(働猫)

この句もまた「苛立って」が不要である。
「にわかに鯖を斬首す」で十分にいらだちは伝わる。
玉虫は様々な句会に精力的に参加し、その句もかなり変化しているように思う。
この頃の玉虫に不足していたものは、読者(受け手)への信頼であろう。
自らの感情を書かずとも伝わるという信頼を、おそらくは句会という場を多く経験し、多くの優れた読み手と出会う中で育てることができたのではないか。



親からの電話だ無視する 小笠原玉虫
△なんだか甘えた感じがします。(働猫)

カラオケ中の女子高生のようである。



飲みすぎた命日の甘い吐瀉物 小笠原玉虫
△人の死も飲む口実にしてしまうのですね。「甘い」がすごくリアルで気持ち悪いな。(働猫)

ゲロ句は小澤温や錆助あたりにやらせておけばよい。
汚物に美を見出す句はできそうでできないものだ。



弱い心を許せと迫るお前切り捨てる 小笠原玉虫
△あたりまえだろうという気がしてしまうのだが、これを句にしたということは、これは詠者にとっては特別なことだったのだろう。これまでは切り捨てられずにいた。頭では理解しながらも互いにだめになっていく共依存の関係から抜け出せないでいたのだろう。やっとその悪循環を断ち切ることができた。だがこの未消化な句を見ている限り、本当に断ち切れたとは思えない。表現者としても生活者としてももう一段上るためには、さらなる自己分析が必要なのではないか。「切り捨てた」なら言ってもいいッ!!ということです。(働猫)

ペッシ ペッシ ペッシ ペッシよォ~~~ということです。



ちょうどよい月のないすきま 十月水名
△「ちょうどよい」のは「月」か「すきま」か。「月」とするならば、言っても仕方のない不平不満を述べていることになる。「すきま」とするなら、月の光からも逃れて闇に隠れたいという後ろ暗さの表れだろう。後者の方が好みであるが、きっとどっちでもいいのだろう。(働猫)

ああ、いい句だなこれ。



出目金黒くて大きすぎるまつり 十月水名
○金魚すくいの水槽の中には、客寄せのため大きな出目金が何匹か泳いでいますよね。子供たちのあこがれの対象であり、また、縁日の持つキラキラドロドロの魔性の象徴でもありますね。ちなみに北海道の縁日で金魚すくいと言えば、和紙を張ったポイではなくモナカが主流であり、実際にはすくえずに参加賞で一匹もらうゲームとなっております。(働猫)

もらっても結局処遇に困ることになるのだが。



正午みたいに広いひらめ 十月水名
●なんとなくわかるようでよくわかりません。じゃあ、かれいは正子かな。(働猫)

逆選こそが十月の句への正しい評価のようにも思える。
その意味でこの句は完成形に近いように思う。



肺の中てふてふつかれている 十月水名
△しうつがひつようよのさ!(手術が必要ですね。)(働猫)

しーうーのあらまんちゅです。



うつぶせても何も変わらなかった 十月水名
△腰痛であろうか。お大事になさってください。(働猫)

人からよく聞く病でなりたくないものに、「花粉症」「ぎっくり腰」「痔」があるのだが、「痔」はすでに経験してしまった。あと二つもいずれなるだろうと思う。ビンゴも近い。



詠めない空に雷雨 馬場古戸暢
△句材は時にこうして与えられるものだ。そしてこの句はそれで「詠めた」句なのか、句材を得たことの報告なのか、どっちなんだろう。メタっぽい思考の迷路に誘われそうだ。(働猫)

メタ句である。



雨にはためく旗と寝入る 馬場古戸暢
△呼ばれた気が。どういう状況なんだろう。雨風の強さはわかります。はためく音を聞きながら入眠していくのでしょう。でも何の旗立ってんだ。国旗?軍旗?あ、大漁旗か?とするとこれは船の上か。明日は時化るだろう。過酷な漁になる。その予感を覚えながら、それに備えて少しでも眠っておこうというのか。漁に命をかける男たちの熱いドラマ。マグロ。ご期待ください。(働猫)

遠く風を聞きながら眠る。
雨音や風の音は不思議とよい睡眠に誘ってくれるものだ。
よい夢が見られただろうか。



首を回すと君が見ていた 馬場古戸暢
△司馬懿みたいに首を180°回せるけど奇異に見られるのでずっと隠していたんでしょうね。秘密を知られたからにはもう殺すか結婚するしかないでしょうな。(働猫)

正体がばれた妖怪のとる道は二つに一つである。



飛び出す猫よそこで止まるな 馬場古戸暢
△猫を思いやれるのは倭国に暮らすものの余裕であろうか。北海道共和国では飛び出すのは鹿か熊であるので、ぶつかればこちらが死ぬ。鹿は強い光を見ると硬直する習性があるため、車のヘッドライトの中立ち止まってしまうのである。(働猫)

3台目に乗った車はランエボだったが、道東から札幌へ向かう日勝峠で鹿とぶつかりフロントが大きく潰れてしまった。鹿はすぐに立ち上がり森の中へ消えた。
何度も言うようだが、北海道は恐ろしい土地である。でも食べ物はおいしいのでどうぞお越しください。7月には文学フリマもあるよ。



笑うて笑うて明日へ眠れん 馬場古戸暢
△楽しい夜だったのだろう。しかし一人に戻るとやはり眠れなかった。一人寝に慣れなかった頃、経験があります。一日の終わりに一人という寂しさ。慣れてしまいたくないものです。(働猫)

一人寝にすっかり慣れてしまった昨今では、眠れない夜にYouTubeでサンドイッチマンや笑い飯の動画を見てしまうことがあり、こうなる。
ご一緒に、ホタテ。



隣から悲鳴のあって夏めく夜だ 風呂山洋三
○ホラーや怪談はかつて夏の風物詩であった。悲鳴が隣人のものか、テレビの中のものかはわからないが、それに夏を感じるという感覚は昭和を生きてきた自分によく馴染む。食卓には西瓜。テレビには稲川淳二か13日の金曜日。「夜」だから「あなたの知らない世界」ではない。新倉イワオ。宜保愛子。池田貴族。みんな死んでしまった。平成世代ならば、隣で事件が起こっているのに無関心な様子ともとれるであろうが、それだとあまりおもしろみはない。(働猫)

団欒の灯、家族、正しい夏の日。
あいかわらず風呂山の切り取る景は、私の失ってしまった優しい世界ばかりである。胸が苦しい。



愚痴聞いている今夜は蒸し暑い 風呂山洋三
△これも「不幸自慢」の句同様、「愚痴」という表現にすでに「聞きたくないもの」という主観が乗せられている。そうするとそのあとの展開「蒸し暑い」も当然のことすぎるように思える。(働猫)

これは上記の評の通りだ。



雨の後の風にタバコの煙乗せた 風呂山洋三
△煙草は吸わないし、むしろ苦手な方だ。それは別にしてこれはきれいな句ですね。長い雨が終わりさわやかな風の中煙草に火を点けたのでしょう。(働猫)

雨上がりの爽快さ。
喫煙者には住みにくい世の中になってきたようだが、句を拾うためにがんばってほしい。



花びら消えた古井戸の闇覗く人のいる 風呂山洋三
△詠者はどこにいるのか。覗いている人を突き落そうと、その後ろに立っているような気がしますね。未遂で済んでいることを祈ります。(働猫)

最近「真田丸」で見たな。



今日のできごと枕に乗せるほくそ笑む 風呂山洋三
△いいことがあった一日なのですね、とかわいらしく読みたいところであるが、鉄塊にそんな心のきれいな詠者はいないはずなので、ここは「ほくそ笑む」という表現に着目しよう。これは本日の企みがうまくいったことを表している。重要書類の数字を改竄し、明日部長が失脚するように仕掛けたとか。友人と遊ぶ約束をして、家の前に落とし穴を掘っておいたとか。あるいは多額な遺産を受け取る目処がたったとか。そういうことなんだろう。違うかい。(働猫)

人生においてほくそ笑んだ経験がない。
私にももう少し人を陥れる才覚があったならば、と思うことがある。
まじめに生きて、雀の涙の生涯賃金を受け取り、支給されることのない年金を支払い続け死んでゆくのだ。
とりあえず落とし穴を掘ることから始めようかとぞ思う。



*     *     *



以下五句がこの回の私の投句。
蕗あまく煮て少女恋におちゆく 畠働猫
花咲け馬鹿の庭に咲け 畠働猫
ペディキュアに土下座している五月闇 畠働猫
おそろしく水呑んで百合しろく咲く 畠働猫
死ぬまでさびしい風窓が鳴る 畠働猫

「少女」の句を時々詠んでみようと試みるのだが、どうも私にその嗜好がないためかうまくいかない。
おそらくは自分にとって詠む必要のない句材なのだろう。
世の中には多くの表現者があるのだから、自分は自分の詠むべきものを詠めばいいのだ。

私は、自分の詠めない世界観を持つ表現者に出会うと、安心にも似た感情を覚える。
りんこやうぐいすの詠む世界は非常に魅力的である。
しかし、そうした世界を表現することは彼女たちが担うのであって、私の担当ではない。
我々表現者は、それぞれの眼で見える世界の美しさを詠う。そうして世界は遍く詠われてゆく。
私は(もしくは私たち表現者は)、ある種の使命感を持って世界と向き合っているのだと思う。この世界の美しさを余さず詳らかにし、伝えてゆくこと。そのために目を見開き、言葉を磨く。しかしどうしても限界はある。世界のすべてを見ることはできないし、言葉のすべては紡ぎ得ない。
だからこそ、自分とは違う視点で世界を切り取る表現者に出会い、その表現に信頼を寄せることができたとき、無上の幸福を覚えるのである。



次回は、「鉄塊」を読む〔25〕。


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