俳句の自然 子規への遡行50
橋本 直
初出『若竹』2015年4月号 (一部改変がある)
明治二十四年冬、子規は分類俳句の丙号に着手している。アルス版の本には一部しか書かれていないけれども、原本の表紙には「修辞学材料 形式的発句分類 并実質的 俳句分類集 丙号 西子編 未定稿(傍線引用者)」とある。西子は子規の別号である。傍線を付した部分は小さい字で書かれていて、何段階かで後に書き足したもののように思われる。もしそうなら、はじめに「修辞学材料」として「形式的」な俳句分類をすることを思い立ち、すすめるうちに、結局形式も実質も含むことになったと仮定できるだろう。
内容は、冒頭でいわゆる「八重襷」(言葉で説明するとわかりにくいので、添付図を参照されたい。例句は立圃作。この場合は三句が組み入れてあり、回文のものもある。)五種の写しにはじまり、回文俳句、文字以外の記号の入った句、カタカナ入りの句や、一句中の同音の使用を種類、音数ごとに分類したもの、言葉のもじり、十八字から二十五字までの字余りの韻律の分析、名詞、動詞の重複のある句、対・反復表現のある句、隠題、比喩、擬人法、典拠のある句、類句、句末が何で止めてあるかなどの多岐にわたる分類が行われていて、丙号はこれまで何度か論じてきた甲号乙号と趣を異にする。季題やキーワードによる分類ではなく、先の二種類を進める内に派生したとおぼしき、作品個々の語の運用によって分類が進められているのである。
アルス版『分類俳句全集第一二巻』 「丙号分類」冒頭部分より 撮影筆者 |
まず注目しておきたいのは、やはりこの丙号の冒頭に「修辞学材料」と書かれていることである。実は原本の第一冊(甲号)にも「修辞学材料」と書かれている。また第一二冊には「美文学材料」とも書かれている。既に本稿で以前触れてきたように、子規は『俳諧大要』等で俳句を西洋でいう「文学」として定義づけするのにあたり、「美」をその尺度として望もうとしていたし、古俳句の収集はその「学」を成立させるために必須の行為であり、そのような子規の「科学」的態度を考えれば、これらは当然といえば当然のことであるだろう。
さらに、この子規の分類の特徴である語の運用への着目について検討してゆきたいのだが、その前に確認しておく必要があるのは、今日我々が普通に思う「国語」の姿と明治のそれとの違いについてである。そもそも、子規が分類を始めたころ、既に「言文一致」の議論はあったものの、まだ今言うところの「国語」という概念はなかったといっていい。
日本における「国語」の成立に重要な役割を果たしたのは上田萬年(かずとし)である。上田は一八六七年二月の生まれ。子規より八ヶ月ほど早いが、同じ慶応三年の生まれということになる。漱石や子規の他にも幸田露伴や尾崎紅葉、山田美妙、南方熊楠など、この年に生まれた偉人は多いが、萬年もその一人ということになる。しかも、恐るべきことに、子規や漱石が帝国大学に入学した時には、既に萬年は同大学を卒業しており、彼らが大学生の頃には独仏へ留学しているのである。その意味では俊才中の俊才ということになるだろう。その上田は子規の退学と入れ替わるように、日清戦争の年に帰国し、帝国大学教授に迎えられ、近代国家における一国一言語たる日本の「国語」の成立をめざして邁進することになる。
ゆえに、子規が俳句分類をしていた明治二〇~三〇年代は、西洋の学問をくぐった体系的な日本語の文法が確立されていたわけではなく、いわゆる古典の和歌俳諧の蓄積は充実していても、近代としての日本語の韻文における「修辞学」などはなかった。日本で修辞学が五十嵐力らによって盛んになるのは、明治四〇年代に入ってからのことであり、それも文章についてである。
先に書いたとおり、この丙号の分類の着手は、明治二十四年冬のことである。この時子規は、現在の我々が小学校一年から習うことになる国民的に共有された「国語」というものが自明のものとしてあるような、あるいは体系的な学問として「文法」や「修辞」があって、そこで表現を云々されるような情況とは異なり、徒手空拳とまではいわないまでも、俳句というジャンル一つとりあげるにあたっても、かなりの部分で自前の「学」の体系を織り上げなければならなかったのである。それは、上田らとはまったくことなる方向から、独自に日本語の表現のありようについてのアプローチを試みていたことになるといってもいいのかもしれない。
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